1992年12月30日 – 砂漠へ向かう

夜中に目が覚めると雨が降っているようだった。雨か。やれやれ。翌朝、目が覚めると雪まじりの雨だった。まったくなんてこったい。しばらくすると明るくなり、やがて、雨も上がった。

下へ降りていく。
「これから、どこへ行くんだ」
「エルフードへね」

3日目になると、ホテルの一階のカフェにたむろする連中も僕のことを知っているみたいで、「昨日はトドラへいったんだろ」これからどこへいくんだ」と声をかけてくる。けっこう、いいやつらだ。ティネリールからエルフードへ行く途中の町、ティニジダットへ行くバスは12時だ。

それまで時間があるので絵はがきを書いた。はがきは昨日も出したのだが、昨日は切手代が2.8 DHで今日は 2.7 DHだった。切手の種類が違うところをみると昨日は郵便局に切手がなかったということか? しかし、昨日の今日だぞ。よくわからない。

広場に日本人のカップルがいたので話しかけた。やはりエルフードへ行くのだと言う。グランタクシーで行くために人を探しているらしかった。取り仕切っているおっちゃんに聞くと一人115 DHだと言われたらしい。人が集まらなくて、結局、彼らもバスで行くことになった。バスで行く場合はティネジダットでグランタクシーに乗り換えてエルフードまで行く。

3人でお茶を飲んでいるとやはりタクシーの人集めをしているという男が来た。「人が集まらないだろう」というと、「いや向こうに2人いるぞ」という。我々はバスのチケットを買ってしまっていたので、パリ在住のギリシャ人で両親はフランス人とドイツ人だというその男もバスで行くことになった。

そのギリシャ・フランス・ドイツ人(国籍が3つ)は、ものすごい倹約家で、しかもたいへんなハードネゴシエイターである。ティネジダットでもエルフード行きのタクシーを交渉して、一人25 DHにしてしまった。「いやあ、ハードディスカッションだった」と彼が言っていた。ほんとに助かった。日本人3人とパリ在住ギリシャ・フランス・ドイツ人とモロッコ人が2人の合計6人でベンツに乗ってエルフードへ向かった。

途中、ラクダの放牧(?)が道のそばに来ていたので、車をとめて、みんなで写真をとった。

それからしばらく行くと、なんと洪水で道路が水没している。オーマイガッ!!。ここで戻らなければならないのか。きのうの雨のせいだろう。何やら運転手と地元の人間が話しているが、パリ在住ギリシャフランスドイツ人によると、水が引くまで待つのだという。どれくらいかかるかの聞いたら「インシャラー」だった。インシャラー……。

あとからきたトラックやランドローバーがどんどん渡っていく。水の深さは1メートルくらいだろうか。ベンツは車高が低いので渡れないのだ。そのうち、「よし、行くぞ」ということになった。その場にいたモロッコ人、数人がベンツの後ろを押すらしい。道路の水没した部分は50メートルくらいはある。渡り始めるとまもなくエンジンが止まった。その後はベンツの後ろを押してもらってどうにか水没した道路を渡ることができた。

車の後ろを押してもらうためにひとり 5DHかかったが、5DHですんだのもパリ在住ギリシャフランスドイツ人のハードネゴシエートのおかげだ。しかし、道路のその部分だけ水浸し、あとは乾いていてすいすい走れる。まったく不思議だ。雨のせいであるのは間違いないがあの水はいったいどこから来るのだろう。

エルフードに着くと日本人3人でホテルを探した。僕は 55DH のまあまあのホテル。彼らはもっといいホテルを探してどこかへ行ってしまった。カップルの旦那のほうは高校の先生だという。終業式も始業式も出席しないので校長に文句を言われながらも、12月21日から1月9日までの長い休みを取ったらしい。なかなかやるではないか。彼女の方は JTBに勤めていて最近辞めたばかりだそうだ。

彼女の話によると、イベリア航空は12月20日前後のフライトをキャンセルしたらしい。イベリア航空のチケットがとれなかったのはそのせいかもしれない。ぼくが頼んだ代理店の人も18日まで遡らないととれないと言っていた。僕の仕事の話やモロッコの旅行中の話などもした。彼らはマドリッドに入り、それから電車と船でタンジュへ渡ったのだそうだ。とても、感じのいいカップルだった。

エルフードでハンマムの場所を教わって久しぶりに全身をごしごし洗った。ハンマムはいいなあ。日本の風呂に浸かっているみたいだ。

それから町をうろうろしていると、数人の日本人を見つけた。話しかけると海外青年協力隊だそうだ。もう半年も働いているそうだ。今夜、日本人10人くらいで忘年会をやるのだという。彼らに安いレストランを教えてもらった。それから、酒を買える場所も教わった。教わった安いレストランには日本語の上手なモロッコ人がいた。なんと、さっきの日本人のなかの一人の女性と結婚しているのだという。どうやって結婚したのか話を聞いた。

「僕の奥さんとはエルフードで会った」(ふむふむ)
「最初は彼女は2週間ここにいた」(ほんとかよ、おい)
「そのあと2度目に来た時は9か月ここにいた」(へぇーっ)
「そして、結婚した」(ほぉーっ)

そのレストランを出て、さっき教わった酒の買える場所へ行ったが、それらしき店がない。よくよくみると、入口があってその奥の何やら隠れ家のようなところで大きな話し声が聞こえる。奥へ入ってみると酒場のようなところだった。モロッコ人が飲みにきている。へえ、こんなところがあったとは驚いた。そこでワインを買った。周りではビールを飲んでいる。それを見ていると飲みたくなったので、ビールも買って飲んだ。ビールは10DH。ワインは60DHだった。

あしたはリッサニへ行く予定だ。リッサニで市が開かれるという話を聞いたからだ。朝7時から午後2時までだというので早めに出るようにしよう。

1992年12月31日

この日のことは一生忘れないであろう。果てし無く広がる荒れ地、そして砂の砂漠、世界中から集まった人々、月の光、輝く星々、みんなで迎えたニューイヤー。ベルベルの太鼓と鐘の強烈なリズム。みんなで歌った歌。

今日はリッサニで市が開かれるので、午前中に市を見て、それから砂漠を見にいって、その日の内に帰ってこようと思ってホテルを出た。一人5.5DHのグランタクシー30分でリッサニへ着くとまだ少し時間が早いようで、さまざまな品物が市場に並べられている最中だった。

ぶらぶら歩いていると、例によって土産屋の男に捕まった。彼の店へ行ってすこし品物を見て、お茶を飲んだ。最初から買う気がなかったので、値段も何も聞かずにお茶だけ飲んでいた。やな客だろうに。買う気がないとわかると、彼が市を案内するという。

彼が勝手に市を案内するので、ついていって、ロバや羊や山羊や牛が前足を括られて並べられているのを見た。ぴんと張ったロープに前足を結ばれて並んでいる姿は実に哀れである。牛は前足を結ばれていて、両前足を一度にぴょんとはねて前へ進むのである。その姿がなんとも哀れで仕方がなかった。あちこちから市場にやって来た人々が荷物を運ぶためのロバを繋いでおく広場というのもあって、たくさんのロバがでかい声で鳴きながらうろうろしている。ロバたちは重い荷物を背負わされて帰るのだろう。

土産屋のベルベル人は市を案内したのだからガイド料を寄越せとかプレゼントをくれとか言うのだが、そんなこと頼んだ覚えはないと言ってすべて無視して振り切った。確かに案内してもらったのだからチップ代わりに10DHくらい払ってもたいしたことはないのだが、例のギリシャ人の影響かなぜか払う気がしなかった。ずうずうしくてケチな日本人に見えただろう。

なんといっても向うは皆貧しく、こちらは金持ちなのである。世の中そういうふうになっているのだ。この問題はむずかしい。

さて、砂漠へ行く手段を考えなければならない。いろいろな人に聞くとどうも砂漠で一泊とか二泊とかするのが普通らしい。うーむ、どうしよう。砂漠へ行くのには、10DH以上出してはいけないことを聞いていた。ここでもそれは確認できた。やがて、「PANORAMA」という看板のあるカフェの前から午後一時に砂漠へ行く車が出ることがわかった。

どんな所へいくのかわからないが、帰りはなんとかなるだろう。と、その時は思ったのだ。その時の恰好は、デイバッグに「歩き方」と水とパンとオレンジとアーミーナイフとモロッコの地図だけ。「PANORAMA」という看板のカフェでしばらくぼーっとしていた。何人かに聞くとやはり1時だというので間違いないだろう。

そうしていると例のギリシャ人と出くわした。そういえば彼も砂漠へ行くと言っていたっけ。砂漠行きの話をしていると、ギャルが二人来て、砂漠に行く方法を考えているのだがどうするんだとかいう話しをした。1時に車が出ると教えてあげた。車の男に聞くとあと二人分のスペースもあるというので、いっしょに行くことになった。そのうち、別の男3人組もやってきて便乗した。彼らは屋根にのった。彼らはベルギーから来たのだとあとでわかった。ギリシャ人は翌日にでも別の方法で行くらしい。

なんだかんだで、2時近くになってやっと出発だ。わくわく!!。どうなることやら。ここらへんでもう今日は帰って来られないことは予想していた。まいっか、どうにでもなれ。車は物凄い悪路をのろのろ進む。歩くような速さだ。これも全部雨のせいだ。まったくもう。

そのうち、見渡すかぎりの荒れ地の中をはしりだした。スピードは上がったが、がたがた揺れてたいへんだ。屋根の上なんか大丈夫なのだろうか。

やがて、左前方に砂丘らしきものが見えてきた。あれがそうか。赤茶色だ。とうとう来たんだなあ。じーんと感動している間に小さな町に寄り何人か降ろしたあと、やがて、砂漠のど真ん中の小さなレストハウスの前に車が止まった。

えーっ、ここで降りるのぉ。どうもそのようだ。おもわず、ギャル二人と顔を見合わせてしまった。「どうする?」「あたしたち、さっきの町に戻ろうかと思うんだけど」などと話しているうちにとにかくお茶を飲むことになった。

ギャル二人はイギリスはマンチェスターの出身でマドリッドに住んで英語を教えているのだという。ベルギー人がそのレストハウスの男とフランス語で何やら話している。イギリスギャルの一人がフランス語が少し話せるので彼女が頼りだ。僕はすっかり彼女に頼りきってしまい、「あなたについて行きますモード」になってしまった日本代表であった。ちなみにベルギー人の一人はフランス語がネイティブで英語が片言なのであった。彼がレストハウスの人間にいろいろ聞いて、そしてフランス語のできるイギリスギャルと話している。それから、イギリスギャルが僕にとても分かりやすい英語で伝えてくれる。彼女は英語の先生なのだ。で、僕は生徒みたいなもんかな?

そのうち、「あたしたち、ここに泊まるわ」というので、「じゃあ僕も」ということになった。そのレストハウスは宿泊用の部屋もあって、スリーピングバッグなしでも泊まれるので凍りつくことはなさそうだ。彼女たちも僕もスリーピングバッグを持っていないので「凍っちゃうよお」なんて話していたのだ。

レストハウスの屋根のテラスに上がってお茶を飲みながら、ベルギー人が持っていた食料で腹ごしらえした。ベルギー人はパンやオレンジやビスケットやダッツ(なつめやしの実)やオリーブやピーナッツなど山のような食料を持っていたのだった。「お腹が空いていたら好きなだけ食べていいよ」と言ってくれたので御馳走になった。ちなみにこれもベルギー人がフランス語で話しかけてきたので、フランス語のできるイギリスギャルが僕に通訳してくれるのだった。とてもかわいくて、やさしいギャルなのであった。

やがて日が沈んでいく。屋上のテラスから沈み行く太陽を眺めた。ああ、なんて美しいのだろう。こうして、1992年の最後の夕日が地平線の彼方に消えた。

イギリスギャル二人はマンチェスター出身で「UMISTに僕の友達がいるよ」と言ったらすごく興味を持ってくれた。彼女たちが住んでいるマドリッドの話も聞いた。「他の大きな都市のように物価が高くなっちゃったのよ。バルセロナもオリンピックの後、異常に高くなったわ」などとおしゃべりした。ベルギー人とはうまく話せなかった。フランス語が話せたらどんなにいいかとモロッコでは何度も思った。「マザータングーは何」と片言の英語が話せるベルギー人に聞いたら通じなかった。おまえが使ったその表現は何だというので、「マザータングー」を教えてあげた。

ベルギー人が高性能な双眼鏡を持っていたので覗かせてもらった。ちょうど真上にある月を見ると、クレーターがよく見えた。遠くの町や砂丘が手にとるように見える。

僕や他の日本人と比べて、このベルギー人たちの旅はすごく余裕があるように感じられる。フランス語ができるせいか余裕しゃくしゃくでとてもゆったりした感じがするのだ。

夕食はタジンを食べることになった。日が暮れて真っ暗になったのでレストハウスの中にランプが灯り、ホスト役のベルベル人も交えておしゃべりした。ベルベル人がタムタムを幾つか出してきて叩き始めた。僕も叩かせてもらった。いっしょに彼らのリズムを真似して、ちょっとしたジャムセッションだ。

そのうちにあちこちから大勢、そのレストランにやって来た。どうも前の日から砂漠にいて、昼間どこかにでかけていた人たちが帰ってきたらしい。その中にロンドン在住5人組というのがいた。そのうちの二人の男は台湾出身で、大学の先生だった。一人は計算機センターの人らしく、インターネットアドレスを持っていたので交換した。砂漠でメールアドレスを持った人に会えるなんてなどと思ったが、そういう時代なのだなきっと。もう一人は経済学の先生で、中国語、英語の他にスペイン語とフランス語も少し話せた。あとの3人は女性で、いっしょに住んでいるらしかった。そのうちの一人はオーストラリア出身だった。なんてインターナショナルなんだろう。

「どこからきたの?」「何をしているの?」などと話をするのだが、出身地も現在の住所もさまざまなのだった。飛び交う言葉も英語、スペイン語、フランス語、中国語とたいへんなのだ。僕はほとんどわからず、英語のできる人とおしゃべりした。けっこう、2カ国語、3か国語と喋れる人がいるのだ。僕も日本語と英語の2か国語が話せるということにはなるのだけれど。

台湾出身の経済の先生はコスタリカの大学で一年教えたことがあって、そのときに必死でスペイン語を勉強したのだそうだ。砂漠へいっしょに来たイギリスギャル二人もマドリッドに住んでいるのでスペイン語が少しできる。一人はフランス語もできる。「英語とフランス語とスペイン語ができれば世界中どこでもOKだ」とか、「中国語はどうだろう」とかそんな話もした。

夕食のタジンを食べ終るとベルベルの太鼓がはじまった。パリで聞いたアフリカのリズムに勝るとも劣らない見事なものだ。タムタムとやたらうるさい鐘に合わせて歌をうたうのだ。映画「シェルタリングスカイ」を見たことがあればわかるのだが、あの世界だ。強烈なサウンドのなかにしばし身を委ねた。全身で心地よさを味わった。

外に出ると天上に月が輝いている。明かりと言えば月の光だけだ。月の光でできる自分の影をみた。空を見上げると星が輝いている。1992年の大晦日はこうして過ぎていった。ニューイヤーを待ちながら、みんなで歌を歌った。ベルベル人のホストの一人が日本の歌を知っていて「シアワシャナラテヲタタコー」なんて歌いだすので、僕が続きを歌ったことがきっかけだった。こんな歌が知られているということは、日本人がたくさん来て歌っていっているのに決まっている。この男は「ぽっぽっぽはとっっぽー」まで知っていた。

さあ、そうすると「次はチーノ行け!」ということになった。台湾が終わると、イギリスだ。イギリスギャル5人が歌ったその歌をベルベル人が知っていたので、皆びっくりしてしまった。

僕は調子にのってもうひとつ宴会芸をやってしまった。スペインもベルギーもオーストラリアも歌って、そして、再びベルベルの太鼓が繰り返される。この太鼓の響きは、外に出ると遠くの別のレストハウスからも同じように聞こえるのだ。

そして、ニューイヤーがやってきた。男同士で、男と女で、女同士で、互いの頬にキスしあうのだ。それから、イギリス人ギャル5人が手を組んで「蛍の光」を歌うのだった。ああ、なんて素晴らしい夜なんだろう。

今調べるとどうやら泊まったところは、

 

Kasbah le Touareg
Hassan Aït Ali
BP 11 Merzouga 52202
Maroc
Tel / fax: 055 57 72 15

らしい。参考URL: Horizons Unlimited Motorcycle Travellers’ Website

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