1992年12月22日 – ひとまずパリへ行く
Paris France
いつ頃、モロッコへ行こうと決めたのか覚えていないが、とにかく、モロッコの砂漠へ行ってみたかった。
日本からモロッコへの直行便はない。そこで、イベリア航空でマドリッド往復に一万円程度追加するとマドリッドからさらにカサブランカまで行けるというチケットをねらったが、どうしても取れなかった。結局、エールフランスでパリまで行き、そこでモロッコ行きのチケットを探すことに決めた。12月6日のことだった。
エールフランスの機内(B747-400)では、モニターに飛行の過程が表示されるようになっていた。モニターの地図上に飛行機のマークと軌跡が表示され、現在位置がわかる。主な都市の他に飛行機のマークの近くに丸印が現れるのは、飛行機の誘導に関する何かだろうか。(*)ちなみに、離陸直後は川崎、その後、新潟、旭川、ハバロフスクだった。また、対地速度、目的地までの距離、離陸からの時間、高度、外の気温が英仏日の三か国語で表示される。シベリア上空を飛んでいる時には、気温が -65℃だった。外はそんなに寒いんだ。
特に着陸態勢に入ってからは面白かった。時速が 300km/hくらいにまで落ち、高度がどんどん下がっていく様子がわかる。シャルルドゴール空港の北側を通過して、旋回してから着陸するので、目的地までの距離が一端遠くなったりするのが面白かった。
そういうわけで、夕方5時半にパリに着き地下鉄のリュクサンブルグ駅の近くにホテルを取った。ハンバーガーで腹ごしらえしてから、ぶらぶら歩きながら旅行代理店を探した。Nouvelles Frontieres という所がまだ開いているようだったので聞いてみたところ、モロッコ行きの飛行機は土日にしかないという。帰りのフライトは1月9日土曜日の夜だが、どうしようかなあ。
ところで、フランは成田の東京銀行で両替したが 1000フラン=26010円 だった。
今見るとパリ-マラケシュ航空券 184ユーロなんてのがでている
パリ リュクサンブール、パンテオン周辺のホテル [フランス・ツーリズム旅行情報局]
1992年12月23日 – モロッコ行きのチケットを買った
5時に目が覚めた。時差のせいだろう。本を読んだりして8時すぎまで過ごした。8時を過ぎたがまだ外は暗い。こうしていてもしかたないので、出掛けることにした。なにはともあれ、モロッコ行きのチケットを手に入れねばならない。あれだけ、回りの人間にモロッコへ行くと宣言してきたのであるからして、「いやあ、いけませんでした」ではすまない。
街へ出てもまだ薄暗く、人通りも少なくて淋しい。旅行代理店が開く10時までぶらぶらして過ごした。昨日とは別の旅行代理店へ行ってみた。12月25日にパリを出たいと思ったが、25日、金曜日のマラケシュ行きはいっぱいだった。カサブランカ行きはあるというが、3000フランもする。クリスマス & ニューイヤーだからしかたがないと言う。結局、昨日のNouvelles Frontieres で土曜日のワルザザート行き、往復 2042フランを買ってしまった。マラケシュ行きもあったが、それは日曜にしか飛んでいない。ワルザザート行きは土曜日である。パリを立つのは1月9日土曜日の夜11時だから、それまでに戻れれば大丈夫だ。よし、ワルザザートにしよう。
と、思ってしまったのがそもそもの間違いでこれが後に大災難を引き起こすのであるが。
ともかくモロッコへの足は確保できた。やれやれ、ひと安心。旅行代理店を出ると、いつの間にか日がさしていて、観光客らしき人々も通りを歩いている。まったく、いままでどこにいたんだよう、君達は。
さて、気分も良くなったところでホテルへ帰って土曜日の朝まで居ることを告げ、それから、観光に出掛けることにした。まず、フォーラムデアルの本屋 FNACへ行ってモロッコの地図を買うことにした。途中、ノートルダム寺院があったので寄ってみた。観光客がいっぱいいたが何だかにぎやか雰囲気が楽しかった。
寺院の中で合唱の練習をしていた。パイプオルガンの響きと清らかな歌声とで何だかおごそかな気分になってしまうのであった。ただし、観光客のカメラのフラッシュがなければもっといいのだが。ノートルダム寺院の裏側では、観光バスが連なり日本人ギャルがきゃあきゃあいいながらかわりばんこに写真を取っている。ちぇっ、楽しそうだなあ。
それから、近くにあるはずの有名なアイスクリーム屋に行ってみることにした。なんでそんなところへ行かなくてはいけないのだと思うだろうが、パリは二度目だし、時間はたっぷりあるし…。大体の見当を付けて歩いていると何やら数十メートルの長蛇の列。むむむっ。なんと例のアイスクリーム屋ではないか。観光客が並んでいるのかと思ったがそうではなくて、地元の人のようだった。なるほど、クリスマスの準備か。そういえば、そうだなあ。
あきらめて、フォーロムデアールを目指して歩いた。その中にある本屋 FNACでモロッコの地図を買った。20%引きで、26.40F だった。
ポンピドーセンターの近代美術館を見てから外に出ると人だかりだ。大道芸をやっているらしい。一人が鎖でがんじがらめに縛られている。鎖抜けのようだ。その間にもう一人がいろいろな芸をやって、観客を笑わせる。言葉がわからなくても思わず笑ってしまう。輪の内側では子供たちが大勢すわって見ている。子どもたちのノリがとってもよくて、すごく盛り上がった。大道芸人の一人は細身で長髪で後ろで結んでいる。もう一人は風貌が怪人のようで、大きなパンツ一枚で、忙しくいろいろな芸をしている。
ホテルへ帰って少し寝た。夜、食事をしてから、「歩き方」のジャズクラブのリストの中の一軒へ行った。ジャズクラブとはいうもののそこは想像していたのとだいぶ趣の異なる場所であった。演奏が始まるとだいぶ年配のカップルがおおぜいで踊りはじめてしまう、そういう場所だった。時差のせいかとても眠くなり、演奏もつまらないのですぐに帰った。
今日はこれを買った
- モロッコ行きのチケット: 2042 F
- モロッコの地図: 26.4F
- ル・オフィシエル・スペクタクル(パリの情報誌): 2 F
1992年12月24日 – アフリカの太鼓に酔いしれる
起きるともう8時半を回っていた。今日はルーブルへ行こう。午後はどうしようかなあなどと考えていたら、思いのほか時間がかかってしまい、夕方になってしまった。
夜、「歩き方」に出ていたタイ料理店へいった。「ミタファップ」という店だが、ぜんぜんだめだ。東京で食べたほうがずっといい。アジアはやっぱり遠いのであった。
その帰りの地下鉄の乗り換え駅のホームですごいものをみた。ホームに下りるとなにやら太鼓の音がする。アフリカの太鼓の音だ。それもかなり本格的だ。おそらくアフリカから来たであろう黒人たちが太鼓を叩きながら歌を歌っていた。そこはもうアフリカの世界だ。強烈なリズムが体全体に響く。くーたまらんなあ。
大きな太鼓が 4つあって、上に跨がって叩いている。やがて、一人がシャンペンを開け、回し飲みを始めた。人だかりのほとんどは黒人でみんないっしょに歌っている。だれからともなく歌いはじめ、それから、太鼓の一人がリズムを刻み、そして絶妙のタイミングで残りの太鼓が加わっていく。これがクリスマスに国ヘ帰れない彼らのクリスマスパーティーだろうか。
やがて、警官が来てやめさせられてしまった。
「なあ、いいじゃねえか、クリスマスなんだから」
「だめだめ、さあ、帰んな」
中には黒人の警官もいた。
「なあ、頼むよ。おい、あんた黒人だろ、わかるだろ」
「はっはっは、しかたないんだよ」
というような会話をしていたような気がした。
1992年12月25日 – クリスマスはどこもお休み
朝、街へ出ると雰囲気が違う。しーんと静まり返り、車もほとんど走っていない。一言で言うと日本の元旦といった感じだ。カフェも休みの所が多い。今日はオルセーへ行くつもりだったので歩きはじめて、途中で、開いていたカフェで朝食を取った。オルセー美術館に着くと……。休みぃ? うわあしまったあ。昨日、ルーブルを見終ってから、オルセーは明日にしようと思ってしまったのが間違いだった。1時間半くらいは見る時間があったのに。同じようにオルセーを見にきて、がっかりして帰る観光客が大勢いた。
ほとんどどの店は休みだ。関係ないがマクドナルドも休みだ。美術館も休みだ。かくして、観光客はシャンゼリゼ大通りを闊歩するしかないのであった。
そういう訳で、今日はあちこち歩き回り、やがてアホらしくなって、ホテルに帰って、一階のロビーでテレビを見た。
きのうの「ミタファップ」の従業員だか主人だかの男は中国人だそうだ。クレジットカードのサインの漢字を見て、向こうがそう言ってきた。彼の名前は、「呉錦良」というのだそうだ。ホントは少し違う字なのだが。僕の名前を中国読みするとどうなるか教えてくれて、彼の名前を日本語ではどう読むのか聞いてきた。それから、欧州日報という中国語の新聞を見せてくれた。
そういえば、カルチェラタンにも中国人が経営しているタイ・ベトナム・中国料理の混ざった店があった。中国とタイが組合わさっているレストランが何件かある。
夜はカルチェラタンのエスニック料理店街に行った。観光客の皆さんも大勢来ている。
今日はとても寒い。さむいよう。明日はいよいよモロッコだ。