次に、クスコからマチュピチュへのツアーを手配しようと思って、クスコへ電話をかけた。グランツールジャパンのクスコオフィスで、「歩き方」によればペンション花田のご主人が経営しているらしい。ペンション花田は、要するに日本人経営の日本人の溜り場宿で、「歩き方」や「バックパッカーパラダイス」に登場する。
電話をすると、日本人の男性が、もちろん最初はスペイン語で出て、こちらが「日本語のわかる方を」というと「はい、はい、どうぞ」と日本語で応えてくれた。あとでわかるのだが、彼が花田氏であった。マチュピチュへのツアーの話をすると、「手配っていってもねえ、予約は10日前までしか入んないし。直接来て貰った方が早いですよ」というので、名前と13日の土曜日の朝に伺う旨を伝えた。マチュピチュへ行きたいのは15日(月)だったので、2日前で大丈夫かいな、帰りの飛行機決まっちゃってるしな、と思ったのだが、実際にはなんの問題もなかったようだ。
クスコはこの時期、雨が多く、観光に適しているのは4月から10月だ。が、こちらは夏なので、12月~1月はやはり混むらしい。北半球の夏休みである7月、8月もやはり混む。どちらが混むのかはよくわからん。
シェラトンから街を観察
用事が済んだので、街へ出てみることにする。窓から下を覗くと、異国の景色が広がっていた。旅の最初でもあり、端的に言えば「あぁ、違う場所に来たな」という感じだ。旅の始めに、訪問地に降り立ったときにいつも感じるあの感じ。心地よい緊張感に包まれて好奇心でいっぱいのあの感じである。ホテルの前はかなり広い大通りで、たくさんの車と人が行き来している。リマのダウンタウンと言えば、それはそれは恐い所だという思いがあるので、人々の様子を観察する。デイバッグを前にしているというのは本当だろうか。ひったくりはそんなに多いの? 観光客らしき人は皆無だった。デイバッグの若者は片方の肩にかけて後ろに背負っている。手下げのバッグをぶら下げている人もいる。要するに、これは、そう、普通だ。そう結論して、ま、とにかく街を歩きに行こう。
途中で見なくても済むように地図を頭に入れて歩き出す。まず感じたのが、そこらじゅうに警官がいる、ということ。ペルーには観光ポリスなるものがあるということだが、その緑色の制服もすぐにわかった。頼もしい、というかやっぱり物騒なんだーというか。
サンマルティン広場からウニオン通りを抜けて、アルマス広場へ。ウニオン通りではなにやらデモ隊のようなグループが警察だか何だかと睨みあっている。「うひゃー、こえー」と思いながらアルマス広場まで行くと市役所の前に大勢の人間が集まりなにやら大騒ぎ。これは、アンデスの村の首長? たちが集まって、「リマ市ばっかり金をもらって豊かなのは許せーん」と言っているんだそうだ。と、これはカテドラルの日本語ガイド、アントニオ君がたどたどしい日本語で教えてくれた。
カテドラルの壁画。左がピサロ
騒ぎを横目で見ながらとりあえずカテドラルへ。入場料は、S/.0.4 と安いのだが、「ガイドいりますか?」の一言に「うん」と言ってしまったおかげで、S/.20のガイド料をとられてしまった。が、しばらくして現れた日本語ガイドのアントニオ君は丁寧にあれこれ説明してくれた。このカテドラルにはフランシスコ・ピサロの棺と遺体がある。ピサロはスペインからやってきた征服者である。アントニオ君によれば、その後、スペイン人と先住民が交じりあって、いまでは純粋なスペイン人はほとんどいないんだそうだ。
で、やっぱり人種間に差別があって、白人が一番上だということだ。「今の大司教さまも白人です」すっかり忘れていたのだが、「シプリアーニ。知ってるでしょう」と言われてはっと気づいた。「ああ、あの人が、ここの…そーか、そーか」もしもここに来るのがあの事件の前だったら、あの事件への関心や見方も変わっていたかもしれない。
中央郵便局へ行って切手を10枚かった。それぞれ絵柄の異なる鳥の切手だった。10枚でS/.33。ついで、中央郵便局の前の通りでハガキを買った。この通りには、カードや封筒やハガキを売る屋台がずらーっと並んでいてなかなか便利である。
いざ、ハガキを買う段になって、スペイン語がまったく話せないことを思い出した。10枚選んで差し出すと、S/.10 だという。うむ、これはちと高いんではないか。しまった。数字が言えないと値段の交渉ができない。数字を覚えないといけない。
1997年のリマはかなり治安が悪く、日本のニュースでも通行人がいきなり集団に襲われるところなどを映し出していた。日本大使公邸占領事件は1997年1月のことだった。