モロッコ旅行記 1992年-1993年

モロッコ旅行記 1992年-1993年 tenagamon 2008/02/09(土) - 01:06

1992年の12月から1993年の1月にかけて行ったモロッコの旅行記です。

パリまでの航空券を買って、パリでモロッコ行きの航空券を探しました。そのチケットのせいでこんな災難に遭うとは...

モロッコ

パリでモロッコ行きのチケットを探す

パリでモロッコ行きのチケットを探す tenagamon 2008/02/09(土) - 01:17

1992年12月22日 - ひとまずパリへ行く

Paris France by

Paris France by uploaded on 31 May 2006

by Keith.Fulton

いつ頃、モロッコへ行こうと決めたのか覚えていないが、とにかく、モロッコの砂漠へ行ってみたかった。

日本からモロッコへの直行便はない。そこで、イベリア航空でマドリッド往復に一万円程度追加するとマドリッドからさらにカサブランカまで行けるというチケットをねらったが、どうしても取れなかった。結局、エールフランスでパリまで行き、そこでモロッコ行きのチケットを探すことに決めた。12月6日のことだった。

エールフランスの機内(B747-400)では、モニターに飛行の過程が表示されるようになっていた。モニターの地図上に飛行機のマークと軌跡が表示され、現在位置がわかる。主な都市の他に飛行機のマークの近くに丸印が現れるのは、飛行機の誘導に関する何かだろうか。(*)ちなみに、離陸直後は川崎、その後、新潟、旭川、ハバロフスクだった。また、対地速度、目的地までの距離、離陸からの時間、高度、外の気温が英仏日の三か国語で表示される。シベリア上空を飛んでいる時には、気温が -65℃だった。外はそんなに寒いんだ。

特に着陸態勢に入ってからは面白かった。時速が 300km/hくらいにまで落ち、高度がどんどん下がっていく様子がわかる。シャルルドゴール空港の北側を通過して、旋回してから着陸するので、目的地までの距離が一端遠くなったりするのが面白かった。

そういうわけで、夕方5時半にパリに着き地下鉄のリュクサンブルグ駅の近くにホテルを取った。ハンバーガーで腹ごしらえしてから、ぶらぶら歩きながら旅行代理店を探した。Nouvelles Frontieres という所がまだ開いているようだったので聞いてみたところ、モロッコ行きの飛行機は土日にしかないという。帰りのフライトは1月9日土曜日の夜だが、どうしようかなあ。

ところで、フランは成田の東京銀行で両替したが 1000フラン=26010円 だった。

 
(2006/5/3) 今でこそあたりまえの機能だがB747-400の現在位置を地図上に表示する機能はこのとき初めて見た。
 
(2006/5/3) Nouvelles Frontieres - Vos vacances aux meilleurs prix
今見るとパリ-マラケシュ航空券 184ユーロなんてのがでている
 
(2006/5/5)(*) どうやら地上無線局というものらしい
 
リュクサンブルグ駅近くのいわゆるカルチェラタン地区と呼ばれる場所。安めのホテルがたくさんある。
パリ リュクサンブール、パンテオン周辺のホテル [フランス・ツーリズム旅行情報局]
 

1992年12月23日 - モロッコ行きのチケットを買った

5時に目が覚めた。時差のせいだろう。本を読んだりして8時すぎまで過ごした。8時を過ぎたがまだ外は暗い。こうしていてもしかたないので、出掛けることにした。なにはともあれ、モロッコ行きのチケットを手に入れねばならない。あれだけ、回りの人間にモロッコへ行くと宣言してきたのであるからして、「いやあ、いけませんでした」ではすまない。

街へ出てもまだ薄暗く、人通りも少なくて淋しい。旅行代理店が開く10時までぶらぶらして過ごした。昨日とは別の旅行代理店へ行ってみた。12月25日にパリを出たいと思ったが、25日、金曜日のマラケシュ行きはいっぱいだった。カサブランカ行きはあるというが、3000フランもする。クリスマス & ニューイヤーだからしかたがないと言う。結局、昨日のNouvelles Frontieres で土曜日のワルザザート行き、往復 2042フランを買ってしまった。マラケシュ行きもあったが、それは日曜にしか飛んでいない。ワルザザート行きは土曜日である。パリを立つのは1月9日土曜日の夜11時だから、それまでに戻れれば大丈夫だ。よし、ワルザザートにしよう。

と、思ってしまったのがそもそもの間違いでこれが後に大災難を引き起こすのであるが。

ともかくモロッコへの足は確保できた。やれやれ、ひと安心。旅行代理店を出ると、いつの間にか日がさしていて、観光客らしき人々も通りを歩いている。まったく、いままでどこにいたんだよう、君達は。

さて、気分も良くなったところでホテルへ帰って土曜日の朝まで居ることを告げ、それから、観光に出掛けることにした。まず、フォーラムデアルの本屋 FNACへ行ってモロッコの地図を買うことにした。途中、ノートルダム寺院があったので寄ってみた。観光客がいっぱいいたが何だかにぎやか雰囲気が楽しかった。

寺院の中で合唱の練習をしていた。パイプオルガンの響きと清らかな歌声とで何だかおごそかな気分になってしまうのであった。ただし、観光客のカメラのフラッシュがなければもっといいのだが。ノートルダム寺院の裏側では、観光バスが連なり日本人ギャルがきゃあきゃあいいながらかわりばんこに写真を取っている。ちぇっ、楽しそうだなあ。

それから、近くにあるはずの有名なアイスクリーム屋に行ってみることにした。なんでそんなところへ行かなくてはいけないのだと思うだろうが、パリは二度目だし、時間はたっぷりあるし...。大体の見当を付けて歩いていると何やら数十メートルの長蛇の列。むむむっ。なんと例のアイスクリーム屋ではないか。観光客が並んでいるのかと思ったがそうではなくて、地元の人のようだった。なるほど、クリスマスの準備か。そういえば、そうだなあ。

あきらめて、フォーロムデアールを目指して歩いた。その中にある本屋 FNACでモロッコの地図を買った。20%引きで、26.40F だった。

ポンピドーセンターの近代美術館を見てから外に出ると人だかりだ。大道芸をやっているらしい。一人が鎖でがんじがらめに縛られている。鎖抜けのようだ。その間にもう一人がいろいろな芸をやって、観客を笑わせる。言葉がわからなくても思わず笑ってしまう。輪の内側では子供たちが大勢すわって見ている。子どもたちのノリがとってもよくて、すごく盛り上がった。大道芸人の一人は細身で長髪で後ろで結んでいる。もう一人は風貌が怪人のようで、大きなパンツ一枚で、忙しくいろいろな芸をしている。

ホテルへ帰って少し寝た。夜、食事をしてから、「歩き方」のジャズクラブのリストの中の一軒へ行った。ジャズクラブとはいうもののそこは想像していたのとだいぶ趣の異なる場所であった。演奏が始まるとだいぶ年配のカップルがおおぜいで踊りはじめてしまう、そういう場所だった。時差のせいかとても眠くなり、演奏もつまらないのですぐに帰った。

今日はこれを買った

  1. モロッコ行きのチケット: 2042 F
  2. モロッコの地図: 26.4F
  3. ル・オフィシエル・スペクタクル(パリの情報誌): 2 F
 
FNAC.com フランスの有名な本屋
 
Forum Des Hallesはショッピングセンター。たとえば、 Anthony's Home Pageを参照。
 
モロッコの地図はRV REISE- UND VERKEHRSVERLAGというところが出してるEuro-Carteシリーズのもの。
 
(2006/5/4)有名なアイスクリーム屋とはBerthillonのこと。 Berthillon -Wikipedia-
 
ポンピドーセンター。 Centre Pompidou
 

1992年12月24日 - アフリカの太鼓に酔いしれる

起きるともう8時半を回っていた。今日はルーブルへ行こう。午後はどうしようかなあなどと考えていたら、思いのほか時間がかかってしまい、夕方になってしまった。

夜、「歩き方」に出ていたタイ料理店へいった。「ミタファップ」という店だが、ぜんぜんだめだ。東京で食べたほうがずっといい。アジアはやっぱり遠いのであった。

その帰りの地下鉄の乗り換え駅のホームですごいものをみた。ホームに下りるとなにやら太鼓の音がする。アフリカの太鼓の音だ。それもかなり本格的だ。おそらくアフリカから来たであろう黒人たちが太鼓を叩きながら歌を歌っていた。そこはもうアフリカの世界だ。強烈なリズムが体全体に響く。くーたまらんなあ。

大きな太鼓が 4つあって、上に跨がって叩いている。やがて、一人がシャンペンを開け、回し飲みを始めた。人だかりのほとんどは黒人でみんないっしょに歌っている。だれからともなく歌いはじめ、それから、太鼓の一人がリズムを刻み、そして絶妙のタイミングで残りの太鼓が加わっていく。これがクリスマスに国ヘ帰れない彼らのクリスマスパーティーだろうか。

やがて、警官が来てやめさせられてしまった。

「なあ、いいじゃねえか、クリスマスなんだから」
「だめだめ、さあ、帰んな」

中には黒人の警官もいた。

「なあ、頼むよ。おい、あんた黒人だろ、わかるだろ」
「はっはっは、しかたないんだよ」

というような会話をしていたような気がした。

 

1992年12月25日 - クリスマスはどこもお休み

朝、街へ出ると雰囲気が違う。しーんと静まり返り、車もほとんど走っていない。一言で言うと日本の元旦といった感じだ。カフェも休みの所が多い。今日はオルセーへ行くつもりだったので歩きはじめて、途中で、開いていたカフェで朝食を取った。オルセー美術館に着くと......。休みぃ? うわあしまったあ。昨日、ルーブルを見終ってから、オルセーは明日にしようと思ってしまったのが間違いだった。1時間半くらいは見る時間があったのに。同じようにオルセーを見にきて、がっかりして帰る観光客が大勢いた。

ほとんどどの店は休みだ。関係ないがマクドナルドも休みだ。美術館も休みだ。かくして、観光客はシャンゼリゼ大通りを闊歩するしかないのであった。

そういう訳で、今日はあちこち歩き回り、やがてアホらしくなって、ホテルに帰って、一階のロビーでテレビを見た。

きのうの「ミタファップ」の従業員だか主人だかの男は中国人だそうだ。クレジットカードのサインの漢字を見て、向こうがそう言ってきた。彼の名前は、「呉錦良」というのだそうだ。ホントは少し違う字なのだが。僕の名前を中国読みするとどうなるか教えてくれて、彼の名前を日本語ではどう読むのか聞いてきた。それから、欧州日報という中国語の新聞を見せてくれた。

そういえば、カルチェラタンにも中国人が経営しているタイ・ベトナム・中国料理の混ざった店があった。中国とタイが組合わさっているレストランが何件かある。

夜はカルチェラタンのエスニック料理店街に行った。観光客の皆さんも大勢来ている。

今日はとても寒い。さむいよう。明日はいよいよモロッコだ。

 
レストラン
モロッコ

初めてのモロッコはワルザザートから

初めてのモロッコはワルザザートから post_monchan 2009/04/19(日) - 20:32

1992年12月26日 - ワルザザートへ

Ouarzazate by

Ouarzazate by uploaded on 12 Sep 2007

By Jean & Nathalie

というわけで,カサブランカでもマラケシュでもなくいきなりワルザザートに行くことになってしまった.もちろん,マラケシュへは行くつもりだ.

朝8時ごろ起きてチェックアウトをすませ,近くで朝食をたべながら明るくなるのをぼんやり見ていた。リュクサンブルグの交差点にある店内で食べられるパン屋みたいなところでクロワッサンとカフェで 10フランだった。どうもカフェの朝食は高いなあと思っていたのだが,こういうところに来ればよかったんだな。

オルリー空港へは RERのC線で行くことにした。こんなに近くに,こんなに立派な空港が二つもあるなんてうらやましい。RERの切符を買うとき42フランもしてなんだか高いなと思ったら,一等だった。切符1枚のつもりで一本指を出したら勘違いされたらしい。まいっか。

ロイヤルエアーモロッコの飛行機が高度を下げ,雪化粧のアトラス山脈を過ぎ,やがてあたりは砂漠となった。窓から下を見ると水の無い川がある。きっと,たまに降る雨で川ができるのだろう。それにしても,こんなに高度を下げているのに空港はいったいどこにあるんだろうと思っているうちに,飛行機はどんどん高度を下げ,突然現れた滑走路に着陸してしまった。

この空港はすごい,すごすぎる。砂漠の真ん中にぽつんと滑走路と小さな田舎の駅みたいな建物があるだけだ。飛行機から降りてみて分かったが,建物の色が茶色で回りの色と同じなのでどこに空港があるのかわからなかったのだ。

パスポートコントロールではホテルの名前を聞かれた。適当に「歩き方」の最初に載っていた「アトラス」と答えると,その係官はそばにいる別の係官に向かって「おい,おい,アトラスだってよ」とか何とか言った。もう一人の方の係官が日本語で「コンバンハ」とあいさつするので,思わずにやりとして「こんばんは」と答えてしまった。ちなみに「アトラス」は一番の安ホテルである。

まずは両替である。空港にある銀行のカウンターでは係が一人でやっているのでかなりの行列ができている。そのうち替えるお金がなくなって,「ちょっと待ってくれ,いまお金が来るから」なんてやっているものだから時間がかかる。この両替には日本円が使えた。100円 = 7.029 DH(ディラハム)

飛行機はモロッコ人でいっぱいかと思いきや,休暇で出掛けるフランス人でいっぱいだった。それで余計混雑している。パリのオルリー空港も大変な混雑だった。クリスマス & ニューイヤー休暇でフランス人がどっと繰り出すようだ。地の果てに来たかのようなこの小さな村だが,フランス人は気軽にふらっと来てしまうようだ。

ワルザザートの空港をでたが,といっても田舎の小さな駅の前の広場のようなものなのだが,はてさて,どうやって町までいけばいいのか,そもそも町までどれくらいあるのか,それさえもわからない。マイクロバスがいたので聞いてみたらプライベートツアーのチャーターだという。困ったなあどうしよう。タクシーにするか。

しかたがないのでタクシーを使うことにした。空港で両替するときフランス語でパスポートの発行日やらなにやらを聞いてくるのを英語で助けてくれたフランス人のおばちゃんがいたのだが,彼女がタクシーで町へ行くというので同乗させてもらった。すでに運ちゃんと交渉してあって,30DHだという。おばちゃんが細かいのを10DHしか持ってなかったので,僕が 20DH払った。

ホテルはアトラスに部屋をとった。31DHだった。アトラスは2階建てで屋上にでることができる。屋上に行ってみるとロープが張ってあって,誰かの洗濯物が干してある。ようするにそういう安ホテルだ。屋上に出るとちょうど太陽が沈みかけていた。夕日が町を照らしとても美しい。

街をぶらぶら歩いているとカフェでお茶している若者たちに呼び止められ,彼らとしばらく話した。皆,英語が片言だけれどなんとか話ができた。本当かどうか知らないが,英語は学校で習うのだという。みな学生で,いまは10日間の休日だという。これも本当かどうかは知らないけれど、ここへは日本人は余り来ないという。本当に通じているのかわからない感じでしばらく話したが,悪いやつらでもなさそうだ。

その中のひとりにハンマム(公衆浴場)の場所を聞いた。すると,俺が連れていってやると言う。そこで,一旦ホテルへ帰って,石鹸,シャンプー,タオルを持ってハンマムへ連れていってもらった。俺の分も払ってくれというので10DH払ってやった。授業料ということで,まあ,いいだろう。ハンマムで久しぶりに丁寧に体を洗い,温まった後,いっしょに飯を食おうと言う。こっちに払わせる気らしいのがわかったが,なにせモロッコ第一日なのでつきあってもらうことにした。とても小さくてフランス人なんかはまず来ないような店で鶏肉を食べて一人15DHだった。結局,食事をおごってやった。そのあとお茶までおごってやった。ちょっとやりすぎたようだ。

あとでわかるのだが,このハンマム 10DHというのはとんでもなく高い値段だった。

そのあと,水を買って返って今日は終わり。水は1.5リットルで5DHだった。

星を見てみようと思って屋上へ行った。うろうろしていると......。うわああ,びっくりした。物置みたいな所に人がいる。屋根裏の怪人かこいつは。実はこのホテルには屋上にも部屋があるのだった。こっちへ来いというので部屋に行ったら,モロッコ人だった。ワインを御馳走になった。なんでも,マラケシュから来たのだという。何をしているのだろう。一人で寂しそうだ。フランス語で話しかけてくるがわからない。フランス語が話せたらいいのにと思った。

しばらく旅してわかったのだが,このようにホテルの屋上にも部屋があるのは普通のことのようだった。

 

1992年12月27日 - カスバに行き、帰りにおばちゃんたちに会う

近くにあるタウリルト(住んでいた人の名前)のカスバ(砦みたいな所)へ歩いて行った。ここは観光の名所で,フランス人の家族連れなどが近くのホテルからてくてく歩いてやってくる。5DH払って中に入ると,中は別になんということもなく,カスバの中はこうなっていますよというだけの話しだ。説明が無いとさっぱりわからない。

出口でお前は日本人かと呼び止められた。時計機能付きの電卓の時刻をセットしてほしいと言うので,時刻と日付をセットしてやった。どこで手に入れたのだと尋ねると,ユネスコのなんとかいう組織で働いていた日本人の技術者にもらったのだそうだ。

タウリルトのカスバを出て近くを歩いた。路地を奥のほうへ入っていくと普通の人々が住む村のようだった。しばらく歩いて行くと広場があって,そこには水道があった。見ていると子供たちがポリタンクを持って水を汲みにやってくる。 時々,フランス人観光客ともすれ違う。子供たちはとても明るくて「サバ?」「ジャポネ?」と声をかけてくる。あぁ,フランス語ができたらいいのになあ。子供たちに「フォト?」といって写真を撮らせてもらった。

町の中心へ戻ろうと思って歩いていると,洗濯物と洗濯板を入れた大きなたらいを頭にのせておばちゃんたちがどこかへ向かって歩いている。天気のいい日曜日なのでどこかへ洗濯に行くんだなあと思ってあとをついていった。

近くの川まで行って洗濯を始めたおばちゃんたちを少し離れた横で眺めていたら,向うから声をかけてきた。「サバ?」「ウィ,サバビエン!」。フランス語でいろいろ話しかけてくるのだけれどさっぱりわからない。ちぇっ,フランス語ができたらなあ。ともかく,「スペイン人か」などというので「日本人だ」と言い,「旅行者か」というので「そうだ旅行者だ」と答えた。写真を撮らせてもらおうと思って,カメラを出して「フォト?」と聞くとアドレスを教えるから日本に帰ったら写真を送ってくれというので,アドレスを交換した。そんなわけで川で洗濯するおばちゃんたちの写真を撮った.うーむ,素敵なおばちゃんたち。

昼過ぎにバスターミナルの近くで日本人の女の子6人組に出会った。こんなところで日本人に会うとはねえとちょっと感動した。とはいうものの,実はこんな田舎町でも「コニチハ」「コンバンワ」なんて声を掛けてくるやつがいるのだ。ということは日本人もここにたくさん来ているってことだな。

午後はアイトベンハッドゥというきれいな村に行った。

小川が流れ緑が美しく夏の盛りならとてもいい所なんだろうなと思った。ここは,ワルザザートから30Kmほど離れているので,タクシーを使って行くしかない。運転手と交渉して往復と現地で45分の見学の時間を入れて200DHということになった。むちゃくちゃ高いんだが「歩き方」によれば,ツアーで140DHなどと書いてあることからこの値段で手を打った。こういうときはグループだとお得だ。6人組の彼女たちも行くと言っていたので便乗すればよかったなあ。

 
モロッコ

NHK「世界びっくり旅行社」でアイトベンハッドゥの暮らしを紹介

NHK「世界びっくり旅行社」でアイトベンハッドゥの暮らしを紹介 post_monchan 2009/05/15(金) - 22:01
アイトベンハッドゥ by Ik T

アイトベンハッドゥ by Ik T uploaded on 26 Jul 2008

NHKの「世界びっくり旅行社」(2009年5月5日放送)でアイトベンハッドゥの暮らしが紹介されていた。そう、今でも何家族かが住んでいるのだ。番組では世界びっくり旅行社の「世界遺産に住もうツアー」に参加した大沢あかねがアイトベンハッドゥの暮らしを体験するという設定だった。

ロバに乗って川を渡ってアイトベンハッドゥに着くとさっそく空いている家の中を見学。だが、まず電気がないので懐中電灯が必要だった。だから、壁にはランプを置くためのくぼみが作ってある。

小さくくり抜かれた窓からは涼しい風が入り、天然のクーラーと言っていたが、季節によっては相当寒いのではないだろうか。

実際に住んでいる家族の所にお邪魔して暮らしぶりを拝見する。毎朝、水を汲みに行くのが日課になっている。最近、歩いて3分のところに水道ができたが、それまではロバで3Km先まで汲みに行っていたとのこと。

電気がないので、川で洗濯をしていた。

ときどき観光客が来るが、にこやかに家の中を見せてあげなければならないらしい。

住民の重要な義務としてアイトベンハッドゥの修復作業がある。アイトベンハッドゥは日干し煉瓦で作ってあるが、これが5年くらいしか持たないので修復が必要なのだ。昔から伝えられてきた方法で行うことも重要で、その場所の土を使って日干し煉瓦を作り修復作業をするのだという。

他に、勝手に入り口を作ってはならないという規則もある。砦の意味がなくなってしまうからだ。

まあ、とにかくあそこで暮らすのはとても大変なようだった。

モロッコ

ティネリールで絨毯を買う

ティネリールで絨毯を買う post_monchan 2009/04/19(日) - 20:45

1992年12月28日 - ティネリールで絨毯を買う

朝の7時半ごろ、バスの時間を聞きにターミナルへ行った。昨日も時間を聞いたのだが、8時と言われたのが夜なのか朝なのかはっきりしなかったし、他に6時とか10時とかも言ってた。で、やはり8時にバスが出るらしい。「他にはないのか」と聞くと13時だという。8時のバスに乗れば12時に次の目的地であるティネリールに着くが13時のバスでは暗くなってしまう。急いでホテルに戻り、荷造りしてチェックアウトした。

バスは民営の安いバスで、赤ん坊は泣くは隣のガキは吐くはで大変だった。バスは民営とCTMとがあり、それぞれ日本の私鉄とJRみたいなものだそうだ。CTMはチケットの値段が高くきれいで高そうなバスを使っている。民営のバスはぼろいのに加えて、ワルザザートを出発してしばらくは舗装されていない道を通ったのでがたがたゆれるので、屋根の上の荷物が落ちないだろうかと気が気でない。ワルザザートからティネリールまでは 30DHだった。

ワルザザートの町を出るともう周りは荒れた土地に石ころがころがっているような何もない土漠だ。果てし無く広がる荒野。すべて、茶色の世界。こんなところに置き去りにされたら、ほんとにサハラの砂と化してしまうであろう。

途中、突然、荒野の真ん中でバスが止まった。皆といっしょに降りてみると、なんと、係員がバスの下にもぐり込んでどこかを直しているではないか。やれやれ。

同じバスにフランス人ギャルの旅行者がいたのであいさつした。
「ボンジュール。ツーリスト?」
「ええ、そーよ。あんたどっから?」
「東京。日本。ねえ、何があったの?」
「知らない。壊れちゃったみたい。私たちこっから歩かなきゃいけないのよ。」(笑い)

モロッコ人も加わった。
「よう、日本人か。よくきたな。どこへ行くんだ?」
「今日はティネリール。それからエルフード、フェズ、メクネス。」
「ああ、メクネスはいいとこだ。ところで、横浜知ってるか?」
「うん。東京の近くだ。」
「横浜にガールフレンドがいるんだ。」
するとフランスギャルが、
「ガールフレンドって、あなた、世界中にいるんでしょう。モロッコにはいるの?」
「いいや。」
「ねえ、あなたはどこからモロッコに来たの?」
「ん。東京だよ。」
「東京から直接来たの。」
「あっ、そうか。パリだよ。パリからワルザザートへ。」

などとおしゃべりしているうちに、ようやくバスが直って出発だ。

その後、バスで隣に座った男にティネリールの安宿を紹介してもらった。そのホテルも 30DHの安宿だ。ティネリールに着いてから、そいつとアッツァイ(ミントティー)を飲みながらトドラ谷への行き方などを聞いた。腹が減ったので「何か食いたい。」というと、「俺の家へ来い、タジン(シチュー)を食べさせてやる。」というので行った。

途中、ベルベル人の薬屋だという所へ寄っていろいろな香料や薬をみせてもらった。サフランなどの香辛料や鼻の詰まりを直す薬などを嗅がせてもらった。

そのベルベル人の家で彼の兄弟姉妹たちと会った。お茶を飲んでいると妹が絨毯を見てくれという。なるほどね、そういうわけね。絨毯を見せてもらって詳しい説明もしてもらった。

絨毯はおおまかに2種類ある。ひとつは1回で織るもので模様を織り込むのに使う絹の量が少ない。もう一つは2回織るもので、1度目は毛で地を織り2回目に絹で模様を刺繍していくらしい。1回で織る絨毯は3週間、2回織る絨毯は2カ月かかるのだという。以前、トルコへ行ったときには絨毯は買わなかったのだが今度は欲しいと思っていた。目の前でこんなに素晴らしい絨毯を見ると思わずくらくらっときてしまう。値段を聞くと2度織る方が3950 DHだという。うーん、高いなあ、高すぎる。話にならない。

そうこうしているうちにタジンがでてきてみんなで食事した。うまい。タジンを食べ、オレンジを食べ、お茶を飲んでいると、また、絨毯の話になった。2000 DHなら買ってもいいよと言ったが、全然、話にならないらしい。向こうは3350 DHと言ってきた。ふーん。高い。3200 DH。だんだん下がっていくなあ。2500 DHでどう?、とこちら。向こうは渋い顔。2600 DHでは?。すると、向こうは3000 DHだという。

以上の交渉は一番上の姉さんと行ったものだ。通訳係になっていた兄弟の男が「間を取って2800 DHにしろ」という。で、「なにか日本の物をもってないか? 持っていたら Tシャツ2枚くらいあれば2600 DHでもいい」という。そこでTシャツ3枚とタオルを付けて2500 DHまでさげて商談成立。ついに買ってしまった。こればっかりは相場がわからないから自分が納得できるかどうかで判断するしかないのだが、それはそれは見事な絨毯であった。

ところで、支払いはクレジットカードでもいいというのには苦笑した。なんでも、金(ゴールド)を扱っている叔父さんがガッチャンの機械を持っているから、頼めばできるのだという。クレジットカードは危なっかしいのでキャッシュにした。しかし、ディラハムではそんな大金を持っていなかったので日本円で支払った。すると、ちゃんと換算表が出てきたではないか。なんなんだこりゃ。空港の銀行にあったものと全く同じ換算表だった。

ジュラバ(頭からすっぽりかぶるもので向うの人がよく着ている。鼠男の服みたいなもの)が欲しかったのでそう言うと、「夜、かーちゃんが帰ってきたら見せてやる」という。それで、夜に再度その家に行ったのだが、「かーちゃんがいないので明日にしよう」ということで、明日また来ることにした。

夜は町中が停電だった。やれやれ。そういえば、砂漠地方ではよく停電するので懐中電灯を買っておけと「歩き方」に書いてあったっけ。うろうろしていると、懐中電灯を売っている所もあったが、停電の最中に買うなんてばかみたいな気がしてやめた。ホテルではろうそくを用意してくれた。しばらくすると電気がついた。2、3時間でつくといっていたがそのとおりだった。

そうだ。停電の間の夜空に瞬く星たちがとても美しかった。あんなにビカビカ輝くオリオン座は見たことがない。

 
モロッコの絨毯に関しては、例えば、
モロッコ旅のまよいかた
 

1992年12月29日 - トドラ谷へ行く

例のベルベル人の家でドーナツのようなものを食べてから、今日はトドラ谷へ行くことにした。タクシーで行けばよいとのことだが、なかなか人が集まらない。どうもこれでは行けそうにない。うろうろしていると長距離のバス停でフランス人がエルフード方面行きのバスを待っている。12時だという。いっそのことトドラ谷はあきらめて、エルフードへ行ってしまおうかと思った。再びタクシー乗り場のある広場へ戻って、泊まっているホテルのカフェにたむろしている兄ちゃんに「トドラへ行くタクシーはないのか」と聞いた。すると「車を探してやるから来い」という。俺の友達が行くからというのだが......。

友達という男に会って彼の車に乗せてもらった。その友達とかいう男は途中で降りてしまい、もう一人いた運転手に少し先のトドラ谷まで乗せてもらった。トドラ谷に着くと「30 DHよこせ」という。なんだ、ただじゃなかったのか。それにしても高いぞ。「グランタクシー(乗り合いタクシー)で一人5DHで6人運ぶのだから、お前一人では 30DHだ」という理屈だ。あんまりなので25DHに負けさせた。まあ30 DH払っても420円に過ぎないのだけれど。

トドラ谷は素晴らしいところだ。アイトベンハッドゥよりこっちの方がずっといい。夏の暑い盛りなら川のせせらぎがとても気持ちがいいと思う。いまは寒いので川に入るどころではない。谷の両側はとても高い絶壁でほとんど垂直に切り立っている。160メートルあるのだそうだ。ロッククライマーが何組か来ていてロッククライミングをしている。谷はしんと静まり返っている。人の話し声が谷に響く。それにしても、この絶壁には圧倒される。川沿いにしばらく歩くと、途中で川が途切れている。そこから先の上流は水の無い川になってしまっている。水はどこから来ているのだろうと思って探してみると、水が湧きだしている所を見つけた。これだけの流量の水がいったいどこから来るのだろう。このトドラ谷へは来る価値がある。

ここまで車で連れてきてくれたおっちゃんとの別れ際に帰りのことを尋ねたら、時計の3時を指して何か言っていた。てっきり、3時に迎えに来てくれるのかと思った。3時までぶらぶらしたり、カフェの椅子に腰かけてぼんやりしたりした。3時を過ぎても車は来ないので歩きだした。疲れたら車をヒッチハイクすればいいやと思ってどんどん歩いた。

途中でガキどもが声をかけてくる。「ボンジュール」ならいいほう。「ジャポネ」「シノワ」「ジャッキーシャン」「カラテ」などなど。途中座って休んでいると5、6人の子供たちが来ていろいろしゃべってくる。

「!"#$%&'」
「なんだよ、うるせーな」
「#$%&%$$$$$%&!"」
「わかんない」
「ワカナイ」(げらげらげら)
「ばか」
「バカ」(げらげらげら)
「なんだよ」
「!"#$%&」
「なにいってんだよ」

うるさいので逃げだすと、石を投げてくる。そいつらだけではない。ガキどもは僕が彼らを無視して歩きだすとよく石を投げてくる。「ジャポネ、ジャポネ」とうるさいし、「シノワ?」「ジャッキーシャン」とうるさいったらありゃしない。いったいどんな教育をしているのだ。一度、「カラテ、カラテ、ジャッキーシャン」というので空手の真似をしてやったら、「ノーノーノー」と怯えて逃げやがった。ざまあみろ。

それにしても、帰り道は子供がうるさくてしかたがなかった。まったく、外人をなんだと思っているのだ。けしからん。目尻を両手で引っ張って細目にしてからかうのだ。けしからん。だんだん、腹が立ってきた。

ティネリールまでは15キロある。1キロ10分のペースで下り坂の道をてくてく歩いていく。それにしても遠いなあ。途中、若者が焚き火をしていたので、あたっていった。僕がアラビア語とベルベル語であいさつができるのがわかって喜んでくれた。いろいろのものをアラビア語とベルベル語とフランス語で何というのか勝手に教えてくれた。

こっちはそれらを英語と日本語で何というのか教えてやった。どうせ忘れてしまうし、はやく止めたかったが向こうが勝手にいろいろ教えてくれるので、つきあってやった。

さて、早く行かねば日が暮れてしまう。10キロも歩くとさすがに疲れてきた。子供にもかまっていられない。あいさつする気力もない。あと1キロの所では、もうふらふらだった。もう、あたりは薄暗い。へとへとになって、結局、最後まで歩いてしまった。

ホテルに着くともうぐったりで、ちょうどみんながハリーラというスープを食べていたので指さして「あれをくれ」といって、一気に二杯平らげ、カフェオレを飲んで、部屋に戻ってそのまま寝てしまった。

 
トドラ谷に関して、 マラケシュフォトダイアリー によれば観光地化されてだいぶ赴きが変わっているらしい。
 
モロッコ

砂漠で素敵に新年を迎える

砂漠で素敵に新年を迎える post_monchan 2009/04/19(日) - 20:50

1992年12月30日 - 砂漠へ向かう

The Beauty of the Desert by

The Beauty of the Desert by uploaded on 19 Nov 2013

by alex lichtenberger

夜中に目が覚めると雨が降っているようだった。雨か。やれやれ。翌朝、目が覚めると雪まじりの雨だった。まったくなんてこったい。しばらくすると明るくなり、やがて、雨も上がった。

下へ降りていく。
「これから、どこへ行くんだ」
「エルフードへね」

3日目になると、ホテルの一階のカフェにたむろする連中も僕のことを知っているみたいで、「昨日はトドラへいったんだろ」これからどこへいくんだ」と声をかけてくる。けっこう、いいやつらだ。ティネリールからエルフードへ行く途中の町、ティニジダットへ行くバスは12時だ。

それまで時間があるので絵はがきを書いた。はがきは昨日も出したのだが、昨日は切手代が2.8 DHで今日は 2.7 DHだった。切手の種類が違うところをみると昨日は郵便局に切手がなかったということか? しかし、昨日の今日だぞ。よくわからない。

広場に日本人のカップルがいたので話しかけた。やはりエルフードへ行くのだと言う。グランタクシーで行くために人を探しているらしかった。取り仕切っているおっちゃんに聞くと一人115 DHだと言われたらしい。人が集まらなくて、結局、彼らもバスで行くことになった。バスで行く場合はティネジダットでグランタクシーに乗り換えてエルフードまで行く。

3人でお茶を飲んでいるとやはりタクシーの人集めをしているという男が来た。「人が集まらないだろう」というと、「いや向こうに2人いるぞ」という。我々はバスのチケットを買ってしまっていたので、パリ在住のギリシャ人で両親はフランス人とドイツ人だというその男もバスで行くことになった。

そのギリシャ・フランス・ドイツ人(国籍が3つ)は、ものすごい倹約家で、しかもたいへんなハードネゴシエイターである。ティネジダットでもエルフード行きのタクシーを交渉して、一人25 DHにしてしまった。「いやあ、ハードディスカッションだった」と彼が言っていた。ほんとに助かった。日本人3人とパリ在住ギリシャ・フランス・ドイツ人とモロッコ人が2人の合計6人でベンツに乗ってエルフードへ向かった。

途中、ラクダの放牧(?)が道のそばに来ていたので、車をとめて、みんなで写真をとった。

それからしばらく行くと、なんと洪水で道路が水没している。オーマイガッ!!。ここで戻らなければならないのか。きのうの雨のせいだろう。何やら運転手と地元の人間が話しているが、パリ在住ギリシャフランスドイツ人によると、水が引くまで待つのだという。どれくらいかかるかの聞いたら「インシャラー」だった。インシャラー......。

あとからきたトラックやランドローバーがどんどん渡っていく。水の深さは1メートルくらいだろうか。ベンツは車高が低いので渡れないのだ。そのうち、「よし、行くぞ」ということになった。その場にいたモロッコ人、数人がベンツの後ろを押すらしい。道路の水没した部分は50メートルくらいはある。渡り始めるとまもなくエンジンが止まった。その後はベンツの後ろを押してもらってどうにか水没した道路を渡ることができた。

車の後ろを押してもらうためにひとり 5DHかかったが、5DHですんだのもパリ在住ギリシャフランスドイツ人のハードネゴシエートのおかげだ。しかし、道路のその部分だけ水浸し、あとは乾いていてすいすい走れる。まったく不思議だ。雨のせいであるのは間違いないがあの水はいったいどこから来るのだろう。

エルフードに着くと日本人3人でホテルを探した。僕は 55DH のまあまあのホテル。彼らはもっといいホテルを探してどこかへ行ってしまった。カップルの旦那のほうは高校の先生だという。終業式も始業式も出席しないので校長に文句を言われながらも、12月21日から1月9日までの長い休みを取ったらしい。なかなかやるではないか。彼女の方は JTBに勤めていて最近辞めたばかりだそうだ。

彼女の話によると、イベリア航空は12月20日前後のフライトをキャンセルしたらしい。イベリア航空のチケットがとれなかったのはそのせいかもしれない。ぼくが頼んだ代理店の人も18日まで遡らないととれないと言っていた。僕の仕事の話やモロッコの旅行中の話などもした。彼らはマドリッドに入り、それから電車と船でタンジュへ渡ったのだそうだ。とても、感じのいいカップルだった。

エルフードでハンマムの場所を教わって久しぶりに全身をごしごし洗った。ハンマムはいいなあ。日本の風呂に浸かっているみたいだ。

それから町をうろうろしていると、数人の日本人を見つけた。話しかけると海外青年協力隊だそうだ。もう半年も働いているそうだ。今夜、日本人10人くらいで忘年会をやるのだという。彼らに安いレストランを教えてもらった。それから、酒を買える場所も教わった。教わった安いレストランには日本語の上手なモロッコ人がいた。なんと、さっきの日本人のなかの一人の女性と結婚しているのだという。どうやって結婚したのか話を聞いた。

「僕の奥さんとはエルフードで会った」(ふむふむ)
「最初は彼女は2週間ここにいた」(ほんとかよ、おい)
「そのあと2度目に来た時は9か月ここにいた」(へぇーっ)
「そして、結婚した」(ほぉーっ)

そのレストランを出て、さっき教わった酒の買える場所へ行ったが、それらしき店がない。よくよくみると、入口があってその奥の何やら隠れ家のようなところで大きな話し声が聞こえる。奥へ入ってみると酒場のようなところだった。モロッコ人が飲みにきている。へえ、こんなところがあったとは驚いた。そこでワインを買った。周りではビールを飲んでいる。それを見ていると飲みたくなったので、ビールも買って飲んだ。ビールは10DH。ワインは60DHだった。

あしたはリッサニへ行く予定だ。リッサニで市が開かれるという話を聞いたからだ。朝7時から午後2時までだというので早めに出るようにしよう。

1992年12月31日

この日のことは一生忘れないであろう。果てし無く広がる荒れ地、そして砂の砂漠、世界中から集まった人々、月の光、輝く星々、みんなで迎えたニューイヤー。ベルベルの太鼓と鐘の強烈なリズム。みんなで歌った歌。

今日はリッサニで市が開かれるので、午前中に市を見て、それから砂漠を見にいって、その日の内に帰ってこようと思ってホテルを出た。一人5.5DHのグランタクシー30分でリッサニへ着くとまだ少し時間が早いようで、さまざまな品物が市場に並べられている最中だった。

ぶらぶら歩いていると、例によって土産屋の男に捕まった。彼の店へ行ってすこし品物を見て、お茶を飲んだ。最初から買う気がなかったので、値段も何も聞かずにお茶だけ飲んでいた。やな客だろうに。買う気がないとわかると、彼が市を案内するという。

彼が勝手に市を案内するので、ついていって、ロバや羊や山羊や牛が前足を括られて並べられているのを見た。ぴんと張ったロープに前足を結ばれて並んでいる姿は実に哀れである。牛は前足を結ばれていて、両前足を一度にぴょんとはねて前へ進むのである。その姿がなんとも哀れで仕方がなかった。あちこちから市場にやって来た人々が荷物を運ぶためのロバを繋いでおく広場というのもあって、たくさんのロバがでかい声で鳴きながらうろうろしている。ロバたちは重い荷物を背負わされて帰るのだろう。

土産屋のベルベル人は市を案内したのだからガイド料を寄越せとかプレゼントをくれとか言うのだが、そんなこと頼んだ覚えはないと言ってすべて無視して振り切った。確かに案内してもらったのだからチップ代わりに10DHくらい払ってもたいしたことはないのだが、例のギリシャ人の影響かなぜか払う気がしなかった。ずうずうしくてケチな日本人に見えただろう。

なんといっても向うは皆貧しく、こちらは金持ちなのである。世の中そういうふうになっているのだ。この問題はむずかしい。

さて、砂漠へ行く手段を考えなければならない。いろいろな人に聞くとどうも砂漠で一泊とか二泊とかするのが普通らしい。うーむ、どうしよう。砂漠へ行くのには、10DH以上出してはいけないことを聞いていた。ここでもそれは確認できた。やがて、「PANORAMA」という看板のあるカフェの前から午後一時に砂漠へ行く車が出ることがわかった。

どんな所へいくのかわからないが、帰りはなんとかなるだろう。と、その時は思ったのだ。その時の恰好は、デイバッグに「歩き方」と水とパンとオレンジとアーミーナイフとモロッコの地図だけ。「PANORAMA」という看板のカフェでしばらくぼーっとしていた。何人かに聞くとやはり1時だというので間違いないだろう。

そうしていると例のギリシャ人と出くわした。そういえば彼も砂漠へ行くと言っていたっけ。砂漠行きの話をしていると、ギャルが二人来て、砂漠に行く方法を考えているのだがどうするんだとかいう話しをした。1時に車が出ると教えてあげた。車の男に聞くとあと二人分のスペースもあるというので、いっしょに行くことになった。そのうち、別の男3人組もやってきて便乗した。彼らは屋根にのった。彼らはベルギーから来たのだとあとでわかった。ギリシャ人は翌日にでも別の方法で行くらしい。

なんだかんだで、2時近くになってやっと出発だ。わくわく!!。どうなることやら。ここらへんでもう今日は帰って来られないことは予想していた。まいっか、どうにでもなれ。車は物凄い悪路をのろのろ進む。歩くような速さだ。これも全部雨のせいだ。まったくもう。

そのうち、見渡すかぎりの荒れ地の中をはしりだした。スピードは上がったが、がたがた揺れてたいへんだ。屋根の上なんか大丈夫なのだろうか。

やがて、左前方に砂丘らしきものが見えてきた。あれがそうか。赤茶色だ。とうとう来たんだなあ。じーんと感動している間に小さな町に寄り何人か降ろしたあと、やがて、砂漠のど真ん中の小さなレストハウスの前に車が止まった。

えーっ、ここで降りるのぉ。どうもそのようだ。おもわず、ギャル二人と顔を見合わせてしまった。「どうする?」「あたしたち、さっきの町に戻ろうかと思うんだけど」などと話しているうちにとにかくお茶を飲むことになった。

ギャル二人はイギリスはマンチェスターの出身でマドリッドに住んで英語を教えているのだという。ベルギー人がそのレストハウスの男とフランス語で何やら話している。イギリスギャルの一人がフランス語が少し話せるので彼女が頼りだ。僕はすっかり彼女に頼りきってしまい、「あなたについて行きますモード」になってしまった日本代表であった。ちなみにベルギー人の一人はフランス語がネイティブで英語が片言なのであった。彼がレストハウスの人間にいろいろ聞いて、そしてフランス語のできるイギリスギャルと話している。それから、イギリスギャルが僕にとても分かりやすい英語で伝えてくれる。彼女は英語の先生なのだ。で、僕は生徒みたいなもんかな?

そのうち、「あたしたち、ここに泊まるわ」というので、「じゃあ僕も」ということになった。そのレストハウスは宿泊用の部屋もあって、スリーピングバッグなしでも泊まれるので凍りつくことはなさそうだ。彼女たちも僕もスリーピングバッグを持っていないので「凍っちゃうよお」なんて話していたのだ。

レストハウスの屋根のテラスに上がってお茶を飲みながら、ベルギー人が持っていた食料で腹ごしらえした。ベルギー人はパンやオレンジやビスケットやダッツ(なつめやしの実)やオリーブやピーナッツなど山のような食料を持っていたのだった。「お腹が空いていたら好きなだけ食べていいよ」と言ってくれたので御馳走になった。ちなみにこれもベルギー人がフランス語で話しかけてきたので、フランス語のできるイギリスギャルが僕に通訳してくれるのだった。とてもかわいくて、やさしいギャルなのであった。

やがて日が沈んでいく。屋上のテラスから沈み行く太陽を眺めた。ああ、なんて美しいのだろう。こうして、1992年の最後の夕日が地平線の彼方に消えた。

イギリスギャル二人はマンチェスター出身で「UMISTに僕の友達がいるよ」と言ったらすごく興味を持ってくれた。彼女たちが住んでいるマドリッドの話も聞いた。「他の大きな都市のように物価が高くなっちゃったのよ。バルセロナもオリンピックの後、異常に高くなったわ」などとおしゃべりした。ベルギー人とはうまく話せなかった。フランス語が話せたらどんなにいいかとモロッコでは何度も思った。「マザータングーは何」と片言の英語が話せるベルギー人に聞いたら通じなかった。おまえが使ったその表現は何だというので、「マザータングー」を教えてあげた。

ベルギー人が高性能な双眼鏡を持っていたので覗かせてもらった。ちょうど真上にある月を見ると、クレーターがよく見えた。遠くの町や砂丘が手にとるように見える。

僕や他の日本人と比べて、このベルギー人たちの旅はすごく余裕があるように感じられる。フランス語ができるせいか余裕しゃくしゃくでとてもゆったりした感じがするのだ。

夕食はタジンを食べることになった。日が暮れて真っ暗になったのでレストハウスの中にランプが灯り、ホスト役のベルベル人も交えておしゃべりした。ベルベル人がタムタムを幾つか出してきて叩き始めた。僕も叩かせてもらった。いっしょに彼らのリズムを真似して、ちょっとしたジャムセッションだ。

そのうちにあちこちから大勢、そのレストランにやって来た。どうも前の日から砂漠にいて、昼間どこかにでかけていた人たちが帰ってきたらしい。その中にロンドン在住5人組というのがいた。そのうちの二人の男は台湾出身で、大学の先生だった。一人は計算機センターの人らしく、インターネットアドレスを持っていたので交換した。砂漠でメールアドレスを持った人に会えるなんてなどと思ったが、そういう時代なのだなきっと。もう一人は経済学の先生で、中国語、英語の他にスペイン語とフランス語も少し話せた。あとの3人は女性で、いっしょに住んでいるらしかった。そのうちの一人はオーストラリア出身だった。なんてインターナショナルなんだろう。

「どこからきたの?」「何をしているの?」などと話をするのだが、出身地も現在の住所もさまざまなのだった。飛び交う言葉も英語、スペイン語、フランス語、中国語とたいへんなのだ。僕はほとんどわからず、英語のできる人とおしゃべりした。けっこう、2カ国語、3か国語と喋れる人がいるのだ。僕も日本語と英語の2か国語が話せるということにはなるのだけれど。

台湾出身の経済の先生はコスタリカの大学で一年教えたことがあって、そのときに必死でスペイン語を勉強したのだそうだ。砂漠へいっしょに来たイギリスギャル二人もマドリッドに住んでいるのでスペイン語が少しできる。一人はフランス語もできる。「英語とフランス語とスペイン語ができれば世界中どこでもOKだ」とか、「中国語はどうだろう」とかそんな話もした。

夕食のタジンを食べ終るとベルベルの太鼓がはじまった。パリで聞いたアフリカのリズムに勝るとも劣らない見事なものだ。タムタムとやたらうるさい鐘に合わせて歌をうたうのだ。映画「シェルタリングスカイ」を見たことがあればわかるのだが、あの世界だ。強烈なサウンドのなかにしばし身を委ねた。全身で心地よさを味わった。

外に出ると天上に月が輝いている。明かりと言えば月の光だけだ。月の光でできる自分の影をみた。空を見上げると星が輝いている。1992年の大晦日はこうして過ぎていった。ニューイヤーを待ちながら、みんなで歌を歌った。ベルベル人のホストの一人が日本の歌を知っていて「シアワシャナラテヲタタコー」なんて歌いだすので、僕が続きを歌ったことがきっかけだった。こんな歌が知られているということは、日本人がたくさん来て歌っていっているのに決まっている。この男は「ぽっぽっぽはとっっぽー」まで知っていた。

さあ、そうすると「次はチーノ行け!」ということになった。台湾が終わると、イギリスだ。イギリスギャル5人が歌ったその歌をベルベル人が知っていたので、皆びっくりしてしまった。

僕は調子にのってもうひとつ宴会芸をやってしまった。スペインもベルギーもオーストラリアも歌って、そして、再びベルベルの太鼓が繰り返される。この太鼓の響きは、外に出ると遠くの別のレストハウスからも同じように聞こえるのだ。

そして、ニューイヤーがやってきた。男同士で、男と女で、女同士で、互いの頬にキスしあうのだ。それから、イギリス人ギャル5人が手を組んで「蛍の光」を歌うのだった。ああ、なんて素晴らしい夜なんだろう。

 
今調べるとどうやら泊まったところは、

Kasbah le Touareg
Hassan Aït Ali
BP 11 Merzouga 52202
Maroc
Tel / fax: 055 57 72 15

らしい。参考URL: Horizons Unlimited Motorcycle Travellers' Website
 
モロッコ

砂漠でらくだに乗る

砂漠でらくだに乗る tenagamon 2008/02/10(日) - 20:44

1993年1月1日

翌朝、起きたとき、来るときにいっしょだったマドリッド在住イギリスギャルが車で町へ帰るところだった。6時半にタクシーが来る予定があるらしいのでそれで帰るつもりだと昨日から言っていた。もう車が動きだしていたのできちんとさよならを言えなかったのが心残りだ。

まだあたりが明るくなりはじめたばかりでちょうど日の出だったので、てくてく砂漠を歩いて日の出を見にいくことにした。ちょうど東側に大きな砂丘があって、なかなか太陽が姿をみせない。その砂丘の横の小さな砂丘のあたりに何人か人がいる。気合の入った人が早起きして日の出を見に行っているのだ。そこまでは1キロくらいありそうだったので、そこまで行くことは諦めて1993年の初日の出を待った。

やがて大砂丘の中腹あたりから太陽が顔をだした。1993年1月1日の日の出をこうして砂漠で迎えることができたのだった。

レストハウスに帰ると女の子たちが起きてきて朝食となった。ベルギー人たちはまだ寝ているようだった。

それからラクダに乗ることになった。ゆうべ、台湾出身の陽気な先生から誘われていたのだ。このコンピュータ屋さんの方の台湾人の先生も、また、たいへんなネゴシエーターだった。ゆうべからラクダの話をしていて、けさも朝食が済むとさっそく交渉をはじめた。

その交渉というのがものすごくて、みんなで食後のカフェを飲んでいるところから少し離れた所でベルベル人と二人でごそごそ話しているのだが、ほんとにいつまでもやってる。みんなは「やってるわねー」といった感じでカフェを飲んでお喋りしながら待っている。やがてまとまったらしく、なんと一人一時間30DHという値段だ。ギリシャ人といい、この台湾人といい偉いもんだ。

リッサニで連れていかれたみやげ屋のノートには日本語で「100DHから200DHでラクダに乗れる。それ以上はぼられている」なんて、書いてあったぞ。どうした日本人。でも僕だったらきっと100DHくらいは払っちゃっただろうなあ。

そういうわけで、まもなく6頭のラクダがやってきた。いやあ、かわいいな。「ラクダさん、こんにちは」。イギリスギャルも「ハロー」なんて目を細めてあいさつしている。「さわってもだいじょうぶ?」などと聞いて、首のあたりをなでている。

しかし、このラクダさん、鳴き声はちょっとおっかないのである。けっこうびびってしまう。それに反芻してムニャムニャやっている。どろどろしたものが口から飛び出てけっこう汚いんである。それから、ラクダさんはいつでもどこでもかまわずウンチをする。そういえば、朝、日の出を見に砂丘を歩いたときに小さな俵型のおにぎりみたいなものがころがっているのでなんだろうと思ったのだが、ラクダの糞だった。

ラクダに乗って砂丘を歩いた。陽気な台湾人が歌を歌い、イギリスギャルもなぜかビートルズを歌い、僕も「つぅきのぉーさばぁくをー」なんて歌った。ラクダに乗ったままカメラを交換して写真を取った。いやあ、なんて素敵なニューイヤーズデイ。日、中、英の歌を歌いながらメルズーガの大砂丘のふもとまでラクダに乗ってやってきた。

ここでラクダを降りて砂丘の上をめざした。高さは50メートルくらいだろうか。ものすごく急な斜面で、そう、40度くらいあるだろう。そういえばレストランにスキーがおいてあった。なんだこりゃと最初は思ったが砂丘でスキーをするのだと聞いて納得した。あまりの急斜面なので登るのが大変だ。靴と靴下を脱いで裸足になってみたが、あまりに冷たくて耐えられない。このへんにも雨が降ったらしく、少し湿った感じで海岸の砂のようだ。ふうふう言いながらやっと砂丘の頂上まで登った。イギリスギャルの一人はちょっと太めで、両脇をベルベル人に支えられながらようやく登った。

頂上に立つとあたり一面砂の砂漠だ。といっても、果てし無く続いてるわけではなくて、ずっと遠くの方は平らな岩だらけの荒野になっている。砂の砂漠は60キロくらい続いているという話しだ。しばらく景色を眺めてから、こんどは砂丘を一気に駆け降りた。登るときは斜めに迂回しながら登った40度以上の急斜面を一気に駆け降りるのだ。

先に、ベルベル人たちが飛んでいき、そのあとを僕が続いた。いいんだな、これが。下まで降りると、再びラクダに乗って砂丘をとぼとぼとレストハウスを目指して歩いた。とてもいい天気で静かで「ねえ、とっても、ピースフルねえ。そうでしょ」とイギリスギャルが言っていた。「うん、特別なニューイヤーズデイだね」と言うと「ニューイヤーズデイに私はラクダに乗ってる!」と言った。

さて、レストハウスに戻ると、台湾人の一行が前持って呼んでおいた車が来ている。ほんとにぬかりがないのだ。僕も便乗させてもらうことにしてあったので、12時にその車でいっしょにエルフードまで帰った。しかし、うまいこと行くもんだなあ。我ながら感心、感心。帰りは砂漠からエルフードまで一人50DHだった。ベルギー人たちはまだそこに残るようだった。彼らの旅はゆったりしているのだ。

砂漠を出る時にベルベル人に15ドルをディラハムに変えてくれと頼まれた。「俺たちはなかなか、銀行に行けないから。」人のいい親切な日本人としてはOKしてしまうのだが、「ふむふむ、ドルを買うわけだから、えーと、1ドル120円くらいにしちゃえ......。」 それは安過ぎるとかなんとか言われて、結局、130DHで変えてやった。これも今回の旅の失敗のひとつ。この15ドルが翌日110DHに変わってしまうとは。とほほ。

失敗と言えば、今回の旅ではフランのT/Cを持ってきたことは大失敗だった。パリを経由するのでフランがいいだろうと思ったのだが、パリではほとんどクレジットカードで支払ったので、結局一度もT/Cを両替しなかった。成田で両替した1000フランで足りてしまったのだ。ちなみに、この成田の東京銀行での両替1000フランというのも多過ぎて大失敗だった。

ちなみにレートだが、

  • アメックスのフランのT/C 2000フラン=47000円
  • 成田の東京銀行 1000フラン=26000円
  • ワルザザートの空港 702DH =10000円
  • ティネリールの銀行 650DH =400フラン

さて、エルフードで彼女たちに別れを告げ、ホテルに戻った。砂漠で結構金を使ったので現金がなくなってしまった。砂漠のレストハウスでは部屋が50DH、夕食のタジンが40DH、朝食15DHとカフェ3DHで108DH払った。それからラクダが二時間で60DH、帰りの車のために50DH払った。週末に金が無くなって困るのは僕のくせでよくやるのだこれを。おまけに今日は金曜だけど1月1日だから銀行も休み。

しかたがないので、もう一泊することにした。時間は午後2時すぎで中途半端だったので、どろだらけになったスボンを思い切って洗ってしまった。それから葉書を書いて、やがて、夕方になったのでハンマムに行ってから、飯を食うことにした。ズボンはまだ乾いていなかったので、タイツの上にジャージを履いてでかけた。

ところで、ハンマムの値段は3DHである。最初の時の10DHっていうのはなんだったんだよう。

エルフードという町は客引きがうるさい。「ホテルは要るか」「砂漠へ行くか? ランドローバーを持っているぞ」などなど、しつこいったらありゃしない。この町はあまり好きになれなかった。それにホテルもレストランも高い。観光客に頼るのはいいが、やり過ぎではないだろうか。レストランは例のモロッコ人と結婚した日本人が出入りする所以外はみんな高い。

 
シェビ大砂丘という名前らしい。素晴らしい写真を見つけた。伊藤清忠 景観デザイン・フォトライブラリーというサイトの シェビ大砂丘のページに移っているのが、たぶん、LE TOUAREG。
 
(2006/5/19) ちなみに今のレートを調べてみると、1DH=12.86円。そんなに変わってない
 
AMEXのTCのレートは、1992/12/12で1フラン=23.37円。
 
モロッコ

フェズでは怒れる日本人なのだ

フェズでは怒れる日本人なのだ post_monchan 2009/04/20(月) - 23:04

1993年1月2日

Fes, tannery, overview by Christine Vaufrey

Fes, tannery, overview by Christine Vaufrey uploaded on 24 May 2006

by christing-O-

四つ星ホテルへ行ってT/Cを200フラン変えた。320DHだった。ホテルの支払いをすませ、水とゆで卵2個とヨーグルト2個を買って、11時のフェズ行きバスに乗った。次の目的地はフェズだ。フェズに何時に着くのか聞かなかった。何時に着こうがどうでもいいやとそんなふうに思うようになってしまったのか。インシャラー。いつかはフェズに着く。

フェズへは、アトラス山脈を越えてゆく。アトラス越えは景色の変化が激しく感動的だそうだが、この移動では大変な天気に見舞われてしまった。エルフードを出たバスは少しずつ坂を登っていく。このあたりの地形はちょっと面白くて、例えばグランドキャニオンの下の部分がエルフード一帯のオアシスである。そして、バスは坂をぐいぐい登って、グランドキャニオンでいうなら上の台地の部分に上がって走るのだ。前方から切り立った崖が近づいてきたかと思うと、いつの間にかその崖の上を走っているのが面白い。

そのうち霧が出てきた。と思うまもなく雪がちらついてきた。まもなくバスはまた少し下っていったので雪はすぐになくなった。途中のミデルトという町を過ぎてしばらく行ったところで乗客の間にざわめきが起こった。隣の兄ちゃんがいうには、フェズへ行く道が切れていて別の道を行くのだという。あれまあ。やれやれだ。

なおもどんどん走るとまた雪になった。今度の雪は本格的だ。10センチくらい積もっているだろうか。雪は降り続いている。バスはのろのろ走る。一体、いつになったら着くのだろう。隣の兄ちゃんによると9時の予定だという。10時間もかかるのか。

雪はさっぱり止まず、まるでスキーバスのようだ。もう外は暗くて何も見えない。このバスはカーブでスリップしたりするのだ。やだなあもう。

やがて、雪が雨に変わり、その雨もやんで、そして、フェズに着いた。午後10時だった。フェズでは思いっきりいいホテルに泊まろうと思っていた。それで、バスは旧市街のメディナの近くのターミナルに止まったのだが、新市街まで行くことにした。ここからが、失敗の始まりである。

めんどくさいし、やっぱり疲れていたのか、タクシーを使うことにした。行き先は「歩き方」を見て適当に「ホテルスプレンディド」と言っていくらかかるか聞いた。30DHだという。暴利には違いないがついついOKしてしまった。スプレンディドでは今夜はフルだと言われた。これで、ちょっと動揺した。

ホテルを出るとガイドに捕まった。ホテルを紹介すると言う。俺はオフィシャルガイドだと言うのだがそんなことどうでもよかった。連れていかれたホテルはジャンヌダルクという安ホテルで、そのガイドが言うには一部屋しかなく、それは4人用で100DHだという。むちゃくちゃな話なんだが、その時はなんだかどうでもよくて、ついつい、OKした。

それから、腹が減っているのでレストランに連れて行かれることにした。ガイドは「安いから大丈夫だ」と言いながら、高そうなレストランに連れていく。しかし、夜遅い時間でどこも食べ物がなかったのでその場で別れた。「金がない」と言うとガイドが両替してやるといい、15ドルを110DHと変えた。今110DHしか持ってないと言って空の財布を見せるのだが本当だったのかどうか。でもどうでもいいやと思ってしまった。

寝ている間に何だかとても腹が立ってきた。フェズはしつこいガイドが群がるので有名だが「ちくしょーふくしゅーしてやるぅ。ガイドなんか鼻であしらってやるもんね」と思いながら眠りについた。

 

1月3日

8時にホテルを出て、今度こそいいホテルをと思って探した。MOUNIAという三つ星Aに部屋がとれた。202DHということだが、それくらい出すといいホテルに泊まれる。なんと部屋に暖房がついているではないか。バスタブもある。お湯も出る。トイレは水洗で、トイレットペーパーもついている。シャワーを浴びてさっぱりし、シャツを洗濯して、11時ごろまでごろごろしていた。

さて、世界一複雑と言われるメディナを歩きに行こう。「歩き方」の地図を破ってポケットに入れ、ホテルを出た。出たとたんにガイドが寄ってきた。フェズとそれからタンジュはガイドがしつこいことで有名らしい。「ノン」といって振り切り、その後も声をかけてきた何人ものガイドを振り切った。なにしろ、この一週間で砂漠を乗り切って強気になっていたし、ギリシャ人や台湾人の交渉ぶりも勉強させてもらったし、ゆうべの一件もあって、怒れる日本人なのだ。

フェズはモロッコで初めての都会だった。まるでパリのようだ。とってもきれいな女の子がジーンズとセーターで歩いていたりする。余り多くはないが男女で手をつないで歩いていたりもする。

メディナへ行く途中で郵便局があった。はがきを出したいけれど今日は休みだなあ。と、思いながら立ち止まると一人の男が近づいてきて「こっちだこっちだ」という。なんだろうと思ったら電話だった。「電話じゃない、切手だ」というと、「そうか、切手はこっちだこっちだ」と近くの売店のような所に連れていってくれた。「俺は郵便局で働いているんだ」と言う。うそつけ。その売店では「ハガキ2枚分の切手をくれ」というと8DHだと言う。あほか、少なくとも2.7DHでよいことはわかっている。「違う」と言うと6DHだと言う。「そうじゃない、その1.35DHのやつを4枚くれ。そうそう、そうだよ」。まったくしょうがないやつだ。売店を出るとさっきの男がまだいた。しつこいね、あんたも。無視して歩いていたらそのうち消えた。へへへ、なにしろ怒れる日本人なのだ。

メディナに近づくとまた一人ガイドが寄ってきた。こんどのはしつこい。
「がいど、がいど。私といっしょならメディナのすべてを見れるね」
「あっそう」
「20ドルでいいよ、OK?」
「やだ」
「あなた、どこ行きたい。10ドルでいいよ」
「ふうん。」

そのうち勝手にガイドを始めた。

「これは、OOOね。これはXXX」
「へええ、そうなんだ」
「ね。10ドル。OK?」
「やだ」

この男。むちゃくちゃしつこいんである。ゆっくりとぶらぶら20分くらい歩いただろうか。その間、まとわりついて勝手にガイドするのだ。「ふうん」「そうだね」「やだ」を繰り返して、適当に引きずりながら歩いていたらそのうち消えた。ざまあみろなのだ。怒れる日本人なのだ。

もう一人しつこいのに出会った。こいつも「俺は学生だ」「俺の店に来い」「10DHでいい」などと言いながら、勝手にガイドするのである。ちょうど皮なめし工場の近くで、勝手にそこに連れて行くのでついていった。革製品の店があって「見ろ見ろ」というので、中に入って奥の裏口から出ると皮をなめす場所だったので勝手に歩いた。「こっちへ来い、あっ、ばか、そっちじゃない、そっちじゃないっつーに」とかなんとかガイドが言っているのを無視して、うろうろして写真を撮った。店から出ると別のやつが「見学料、10DH寄越せ」とかなり強く言う。そんなものあるわけないので、「何のことだかわかんなーい」といって強引に逃げた。ざまあみろなのだ。怒れる日本人なのだ。お前らなんかに一銭たりとも、いや、一サンティームたりともやるものか。

さらに、勝手にガイドするやつがいた。そいつら二人には織物工場に連れていかれた。中に入るとジュラバ用の布を織る機械がいくつかあって、職人が布を織っていた。ガイドの一人がしきりに写真を撮れ撮れという。写真に撮りたいと思ったので、ガイドを無視して、職人さんに「フォト?」と聞くと金を請求するので、別の職人に聞いたら「いい」というのでカメラをだした。

すると、ガイドの一人が職人に代わって布を織りはじめた。なんてやつだ。これで写真代を請求するに決まっている。このやろ、と思ってカメラをポケットにいれて、他の方を見ていた。

一台、使っていない織り機があって、そこでお前が織っている姿を写真に撮ってやると言われ、そうやって撮った日本人の写真を見せられた。すきをねらって、さっきの職人が織っているところを撮った。その職人も「おい、金を寄越せ」などというのだが、用は済んだのでさっさと出ていくことにした。ここでも怒れる日本人なのだ。

まったく、こいつらときたら、日本人をなめているんである。かってにガイドするんだからさせておけばいいんである。「俺がいないとお前は迷うぞ」んなことわかっとる。こいつらは観光客を食い物にすると最後は自分たちが損をするということがわかってないのか。なんで、こんなふうになってしまったのだ。それとも、これで彼らはうまくやっているのか。こんなに悪名高い嫌われ者なのに。そういうわけだから、フェズを訪れる日本人のみなさんは金を払ってはいけないのだ。ニホンジンカネハラワナーイなのだ。迷うのがいやなのなら、オフィシャルガイドを雇うべし、なのだあー。

とはいうものの、もしフェズがモロッコに来て最初の町だったなら、もしヨーロッパ人から学んでいなかったら、怒れる日本人でなかったら、やっぱり払ってしまうだろう。だって、10DHといえば140円。50DH払ったって700円でしかない。それに、向うからしてみればガイドもつけずに皮なめし職人や織物職人の見学をするなど「むむっ、許さぁーん」というようなものなんだろう。

夕方カフェでぼーっとしていると若者が来てメディナを案内すると言った。そして、日本人がその男について書いたものを見せてくれた。「こいつはいいやつです。他のガイドと違って金を要求しません。」とか「この人はホントにいい人です。私は感謝の気持ちとして10DHあげましたが、あくまで気持ちです。強制ではありません」とか「私はペンをあげました」とか書いてある。

そうなのだ。感謝の気持ちなのだ。日本人は感謝の気持ちとして10DHくらいやるのだ。チップがわりだ。でも、趣味でガイドするやつがいるなんて絶対信じられない。よく考えると10DHといえば結構な金なのだ。パンにいろいろはさんだサンドイッチのようなものなら2回食える。ハリーラとパンなら5回食えるぞ。日本で言えば1000円くらいじゃないだろうか。

この問題はとってもむずかしい。いままで会ったヨーロッパ人たちは、パリやロンドンやマドリッドに住んで、うんと金のかかる生活をしているはずなのだ。しかし、この社会では必要以上の金は絶対に払わなかった。一方で金をばらまくヨーロッパ人観光客だっているだろうと思う。

だって、こんなに安い国なんだからいいじゃないか。かれらの生活を助けると思えば。という考え方もあるのかもしれない。感謝の気持ちなのだ。チップがわりなのだ。

というように、いろいろと考え込んでしまう日本人なのであった。

 
モロッコ

モロッコについて考えつつマラケシュへ

モロッコについて考えつつマラケシュへ post_monchan 2009/04/20(月) - 23:12

1月4日

The souqs of Marrakesh by

The souqs of Marrakesh by uploaded on 22 Sep 2005

by oceanhug

今日は別にすることがない。細かい用事がいくつかあるだけだ。ゆっくり起きて、銀行へ行って両替して、マラケシュ行きのバスの切符を買って、ロイヤルモロッコエアーに行ってリコンファームしようとしたら必要ないと言われた。さて、あとはバス旅行のための食料でも買えば終わりだ。

メディナ以外に行く場所もないのでメディナに行った。10個くらいのケフタ(肉だんご)をパンにはさんだサンドイッチを14DHで食べてあとはほとんどカフェでぼーっとしていた。いま着ているセーターはぼろいのでセーターを買おうかと思ったが値段を聞いてみると予想より高いのでやめた。お土産によさそうな牛の角のチップでできたキーホルダーがあったが一個10DHもするのでやめた。帰りがけに、ピーナッツ500グラムとダッツ(なつめやし)1キロと水を買ってホテルに帰った。

ところで、世界一複雑なフェズのメディナだが、迷ってしまうのは本当だ。 きのうメディナから帰ろうと思って、もと来た方向をめざしたのだが、ガイドから逃げようとしてガイドと違う道を選んで歩いているうちに迷ってしまった。大体の方向感覚でメデイナの西側の入口を目指して歩いたのだが、そのうち変な所からメディナの外に出てしまった。いったいどの辺に出たのだろう。「歩き方」の地図を見てよく考えるとメディナの北側に出てしまったようだ。ガビーン。おそるべしフェズのメディナ。最初はこれならなんとかなると思ったんだけどなあ。しかたがないので太陽の向きを頼りにして、もう一度メディナの中に入ってブージェルード門を目指すことにした。

そういうけだから、迷わないためにガイドを雇うというのはそんなにわるくない考えではある。

こんなこともあった。夜、レストランへ行こうとしてホテルを出ると例によって男がレストランを紹介するといってつきまとう。別に頼んだわけでもないのだが、くっついて離れない。自分で適当な店に入ってしまおうかと思ったが、そもそもフェズの新市街には高いレストランしかない。昨日食べた所もメニュー形式で42DH、単品でクスクスが34DHだった。安い店に案内してくれるかと思ってついて行った。何件か行ってずいぶん断った。そりゃそうだ。ガイドの取り分も上乗せするのだもの、高いに決まっている。そのうち、裏のほうにあるひなびた安レストランに連れていかれた。レストランとは言えないような食堂だった。あまりいいものは食えそうにないがガイドが離れないのでここに決めた。

煮込み料理を2皿食べて、最初30DHといわれたがすぐ25DHになった。なんだそりゃと思っていると、店を出てから「俺が30DHの所を25DHにしてやった」という。うそつけ。あれはどう考えても10DH位の料理だぞ。ばかたれ。「店を紹介してやったし、安くなったんだから、5DH寄越せ」という。あほか。「なにを言ってんのかわかんなーい」と言って無視した。

帰り道、果物売りがいたのでオレンジを買おうと思った。大きなやつを3つ秤にのせると1キロと200グラムだった。重さを測る天秤についている洗面器にオレンジをのせて「よし、これで幾らだ?」ときくと10DHだという。あほか。「信じられない」と言ってそのままにして歩きだした。すると例のガイドがあわてて走りより「6DHだ、6、6でいい」とぬかす。もう遅いわい。ほれみろ、お前のせいで、果物売りのおやじまで損したではないか。なんで人の売り買いのじゃまするんだよう。

よく考えたら、果物売りの親父もレストランの親父も、いきなりやってきたガイドから「この日本人の払いからいくらいくら俺にくれ」なんて持ちかけられているのかもだな。なんてこった。

1月5日

朝、5時45分に起きて、6時半のバスに乗るためにターミナルへ行った。マラケシュへ向かうバスはCTMのもので、民営のバスより高くてバスは上等だ。ターミナルでは、まず、荷物の計量が行われた。民営のバスでは量りもせずに適当に金を請求するのだが、ここでは、まず重さを量って、それをチケットの裏に書いてもらう。それを持っていって窓口で金を払うと荷物の引換券とタグをくれるのだ。荷物の引換券はバスを降りてから荷物を貰うときに必要だった。それから、座席もちゃんと決まっているのだった。

バスは7時に出発した。フェズよ、さようなら。ここはそんなに好きでなかった。人気ナンバーワンというのが信じられない。メディナに宿をとればよかったのかもしれないし、迷うのを恐れるあまりメディナをそれほど歩いていないのかもしれない。

バスでは、フェズとマラケシュの中間にある街、ベニメラルの大学のフランス文学の先生だという人と隣になった。大学の先生だというのにまずびっくり。初めて会うインテリだ。いかにも知的そうな落ちついた感じの人だった。彼が「日本人は休みが嫌いで働くのが好きだとテレビで見たが本当か」と聞いてきた。おいおい。「いや、みんな休みが好きだ」と答えておいた。彼はベルベル人でベルベル語とアラブ語が二つと(クラシックアラブと言っていた。アラブ圏標準語とモロッコ方言のことか)、それから、フランス語がペラペラで、英語が少しできる。

彼の話によると、モロッコにはもともとベルベル人が住んでいて、そこへアラブ人がイスラム教を持ってやってきたのだそうだ。「歩き方」にもマグレブの歴史が書いてあるが、要するにベルベルがもとから住んでいて、彼らはローマやオスマントルコやスペインやいろいろな国によって支配されていたのだ。そういうわけだから、ここは純粋なアラブではなくヨーロッパの香りがプンプンする。その先生曰く「アラブ語よりベルベル語の方がポピュラーなんだ。私の両親はアラブ語が喋れない。私は勉強してアラブ語が話せるようになったんだ」のだそうだ。

彼の奥さんも大学の英語の先生で、彼よりも英語がよくできるそうだ。彼の話では15%位の人が大学へ行くらしい。たいしたものではないか。問題は彼らに仕事がないことだと言っていた。モロッコ人はフランスやスペインに行って働いて、フランス人やスペイン人と結婚したりするらしい。日本人の男は国際結婚するかと聞くのでとても少ないと答えておいた。エルフードでモロッコ人と結婚した日本人女性の話をしたら大変驚いていた。最初の質問は「彼の仕事は何だ?」だった。レストランだというと少し安心したようだった。

彼には5人も子供たちがいて、「彼らを大学に行かせたいか」と聞くと、「ああ、金を出す用意はできているよ」と答えた。幸せな子供たち。「女の子もか」ときくと、「そうだ」という。「女は働くべきでないという考えはないか」ときくと、「そんなことはない。女は時として男よりいい働きができることもある。教師とかね」とのことだった。「日本ではどうか」というので、「古い考えの人もいるが、いま変わりつつある」と答えておいた。「モロッコも変わりつつある」。そう言っていた。そう、ここは純粋なアラブではないのだ。

バスで9時間。4時すぎにようやくマラケシュに着いた。これがマラケシュかあ。なんとなく都会だというのがわかる。ターミナルからしてとてもりっぱなのだ。

バスから降りるとさっそくガイドがいて、「ホテルはこっちだこっちだ」という。ホテルはジャマエルフナ広場の近くにしようと決めていたので、かまわず歩きだした。そいつはターミナルの近くのホテルに連れていこうとするのだが、こいつもかなりしつこかった。客がいなくてたいへんなのかしらん。

ジャマエルフナ広場につくとちょうど屋台が出始めるころだった。カフェで一休みして、それから、ホテルをさがした。部屋を確保して、広場へ行った。うーん、とてもいい雰囲気だ。なんというかアジアっぽいんだな。僕は一目でここが好きになった。屋台がいっぱい出ていて、おいしそうな匂いがしている。うーん、何だか血が騒ぐなあ。さっそく、ハリーラを一杯食べた。1.2DHだった。安いなあ。それから、歩く間もなくカバブを焼いている屋台のおじさんに来い来いといわれつかまってしまった。だって、おいしそうなんだもの。これは10DHだった。それから、貝のスープのようなものを売っていたので一杯もらった。かたつむりだった。

メインは魚フライの店だ。ブロックみたいな魚フライとポテトフライを食べた。仕上げはオレンジジュース。うまいんだな、これが。本物の絞りたてのオレンジジュース。3DHだった。ここではどの屋台でも同じ値段なのだ。


1月6日

今日はたくさん買い物をした。まずは皮のサンダル。115DH。それからジュラバ、300DH。これはちょっと高かったかもしれない。あっさりと決まってしまったから。それから皮のデイバッグ。絨毯に使うような刺繍の入ったやつだ。これは僕のポーチバッグとペンとスキーツアーのおまけでもらったポンチョをつけて150DHだった。このポンチョはピンクとグリーンのハデハデな色のやつで、素材はビニールのペラペラなものだが、真っ先に欲しがった。

金がなくなったので、昼飯を食って、あとは銀行が開くまでカフェのテラスから広場の様子をぼんやり眺めていた。ベルギー人のあの双眼鏡でもあれば楽しめるだろうなんて思った。

金を両替して、再びスーク探検に出かけた。サフラン50グラムで20DH。ミントティが10DH。ミュージックテープ一本20DHを3本を買った。そのうち一本はなぜかコーランのテープだ。ミュージックテープ売りはたくさんあるのだが、どこでもモロッコギャルが目を輝かせて聴いている。大好きなスターとかいるんだろうか。そういうところのギャルは全然ものおじせずににこにこ笑って話してくれる。

夜は例によって屋台で食事だ。今日はクスクスを食べた。ところでこのクスクスは代表的な料理だが、僕はあんまりおいしいとは思わないんだなあ。何回か食べたけれどいつもそう思った。

モロッコは食べ物に関してはとても質素だ。そもそも種類が少ない。クスクス、タジン、カバブ、ケフタくらいではなかろうか。ハリーラはどこで食べてもおいしくて、とても気に入ったが、屋台の揚げ物もとびきりうまいわけではないし、...

今日はこれを買った:

  1. 皮のサンダル 115DH + ペン
  2. ジュラバ(毛) 300DH
  3. 皮のバッグ 150DH + ペン + ポーチバッグ + ポンチョ
  4. サフラン50g 20DH
  5. ミントティー 10DH
  6. ミュージックテープ(3本) 60DH
 
クルアーン
クルアーン(コーラン)のカセットテープ
 
モロッコ

パリ行きがドタキャン、日本へ帰れるのか!

パリ行きがドタキャン、日本へ帰れるのか! post_monchan 2009/04/20(月) - 23:19

1月7日

これといって何もすることのない僕は、今日もジャマエルフナ広場をずーっと眺めていた。午前中はミントティーをもう一袋とスカーフやキーホルダーなどをお土産に買って、お昼を食べてからはカフェの2階のテラスでずーっと広場を眺めることにした。どこか名所を尋ねてもよかったのだが、ここでは全然そんな気にならない。午後4時頃になるとあちこちから屋台がやってくる。「おぅ、来た、来たー」と思っている間もなく、昼間はセーターを売っていた場所が少しずつ屋台に変わっていく。なんだかんだで暗くなるまでそうして眺めていた。

広場ではわけのわからない大道芸、わけのわからない蛇使い、わけのわからない音楽演奏などがあり、ときおりガイドが連れてくる団体観光客が目の前を通るとこの時とばかりに懸命に楽器を鳴らし、蛇を踊らせ、そして金をねだるのだ。団体観光客の列それ自体も上から眺めていると蛇みたいなものだ。ぞろぞろ、くねくねと歩いて広場を横切っていく。団体観光客はヨーロッパ人のおじいさん、おばあさんが多いのだが、意外と金払いはよくない。

夕方になってさすがに飽きてきたので広場に降りた。どうしようかと迷っていたセーターを買うことにした。もう店じまいなのか安売りの状態に入っているようだ。値段はわからないのだが「さあさあ、○○ DHだよー。持ってけぇー」とかなんとか言っているのがなんとなくわかる。どれにしようかと眺めていたら値段を教えてくれた。80DHだった。

例によって屋台で食事をしてオレンジジュースを飲んだ。最後の夜なのでもう少しぶらぶらしようと思って広場をうろうろした。8時ころになるとハリーラの屋台もほぼ売り切れで、値段も1DHになっていた。ハリーラの屋台では10代と思われる女の子がハリーラをすすっていた。そういえば屋台で食べるモロッコ人の中に女性はほとんどいない。

これで、マラケシュの夜も終りだ。さらば、マラケシュよ......。

と、この時は思ったんだよなー。まさか、またマラケシュに舞い戻るはめになるとは。

1月8日

10時のバスでワルザザートへ向かった。最初の町に戻るわけだ。長かった旅も終りだ。あとは日本へまっしぐら、明日の夜には東京行きの飛行機に乗っているんだもんなあ。なんてことを考えていたのだよ、この時は......。

ワルザザートの町にバスが入ると見覚えのある建物が目に入り、懐かしさを覚える。パリでもローマでも一度来た所を再び訪れるとそんな感じがするものだ。たとえ2、3日滞在しただけでも。

ワルザザートは意外とりっぱな町だった。旅の最初は小さくて何もない村のような印象を受けたのだが、けっこういろいろなものがある。ロイヤルエアーモロッコのオフィスもあるし、銀行も実は何軒かあった。スーパーもメインストリート以外にももう一軒あった。

明日のパリ行きの飛行機は朝、8時半出発だ。一応国際線だから2時間前に空港に着くべきだろうと思って、6時半ごろ空港に行くことにした。タクシーはとてもつかまらないだろう。ホテルで聞くと空港まで3キロだという。歩いても30分くらいだ。たいしたことはないと思って、歩くことにした。

1月9日

この日のことも決して忘れないだろう。いま思い出しても夢のようだ。それは突然やってきた。災難は突然やってくるものだ。おまけに知らないのは自分だけであって、災難の方はちゃくちゃくと進行していたのだ。ったくもう......。

6時に起きて空港へ向かった。まだ夜明け前で、特に空港へ行く道は灯りもついていないのでまっ暗だ。6時半すぎに空港へ着くと、まだ誰もいなかった。

......

と、まもなく二人組の男がやってきて、「おい、お前はこんな時間にこんな所で何をしている」などと聞いてきた。俺たちはポリスだという。商人には強気でも役人には逆らっちゃいけないのだが「何をしてるったって、そりゃ......」

8時半の飛行機に乗ることを説明して、彼らといっしょに空港の中に入った。しばらく、一人で待っていたが客らしき人間は一人も来ない。そんなもんかなあと思いながら、日が登るのを見ていた。

空港の中のホワイトボードにスケジュールが書いてあって、8時半のパリ行きの飛行機は7時50分にこの空港に着くことになっている。8時になっても来ないので変だなあと思っていると係員が言うではないか。

「その飛行機は来ないよ」

がびーん......。悪い冗談はやめちくれぇー。

「昼過ぎにパリ行きがあるからそっちに変えなくちゃなあ」

あの......。そう簡単に変えられるわけねーだろ。

もっと確かそうな人間に聞いても、やっぱりその飛行機は来ないという。彼らが言うには、Nouvelles Frontieres のオフィスがあるからそこへ行くのがよいらしい。そんなものが町にあったとはしらなかった。

車に乗せてくれることになり、ほとんど行きかけたところに何やらりっぱな観光バスがやってきた。Nouvelles Frontieres のチャーターバスだった。僕を拾いに来たのだった。

Nouvelles Frontieres の人が言うには、「これからマラケシュへ行き、一泊して明日のパリ行きに乗せる」とのことだ。冗談でしょう。それじゃ間に合わないよう。とにかく問題は「今日中にパリへ行かなければ、東京行きにも乗り遅れてしまう」ということなのだ。

それを伝えると向うも困ったような顔をして「昨日、言ってくれればなんとかなったのに。なんで再確認しなかった」などどいう。「えっ、再確認したよ」というと「Nouvelles Frontieres にか?」だって......。

なんでも「チャーター便なので旅行代理店の方に確認してくれなくちゃだめだよ」などというのだが、そんなこと知らなかったもん。

とにかく大パニックの状態の中、なんとか手立てを考えなければならない。「一緒にマラケシュへ行けば、2時半の飛行機に乗れるかもしれない」というのでそうすることにした。「その場合はチケットを自分で買うことになるぞ」というがそんなことはかまわなかった。

バスはいったん、ワルザザートの郊外の高級ホテルに行き、そこで同じ飛行機に乗るはずだった観光客を大勢のせた。こっちとしては一刻も早くマラケシュへ行かねばならんのに、なんでああいう観光客はのろのろしているのだ。「いつまでもしゃべってばかりいるんじゃない! 早くバスに乗りなさい」と心の中で毒づきながら、絶望にうちひしがれて、ひとりうなだれるのであった......。

やがて、バスは出発した。9時半くらいだったろうか。路線バスだと5時間かかるということは......。二時半に間に合うわけないじゃんか。こいつ信用できんのかなあ。とまあ考えてはみたもののどうしようもないわけで、とにかく時間が立つのをじっとこらえて待つという、そんな感じだった。

バスは新しくてりっぱだったのでとても快適だ。とてもスピードを出すので、どうやら1時くらいには着けるかもしれない。と思ったら、休憩してしまった。おいおい、そんなに喜ぶなよー。早く行った方がいいって。

願いもむなしく20分の休憩が宣言されてしまった。他の観光客ときたら旅行が無料で一日伸びてラッキーくらいにしか感じていないのだ、きっと。人の気も知らないで。休憩の間、観光客はお茶をのみ、僕はいらいらしながら待っていた。いざ、出発というときも、のんきにお土産やさんに夢中になって遅れて来る奴がいるのだ。

いらいらしながらのバス旅行で、ほとんど口を聞かずになんでこんなことになってしまったんだろうと考えていた。旅行代理店の人と話してだんだんわかってきたのだが、

  1. このフライトは Nouvelles Frontieresのチャーター便だった。
  2. しかしキャンセルされた。
  3. Nouvelles Frontieres がバス・ホテル代を持ち、代わりの飛行機に乗せる。
  4. Nouvelles Frontieres に再確認すればこんなことにならなかった。

とまあこういうことだ。

さらに、これはもっと後で気づいたのだが、彼が言うNouvelles Frontieresに再確認すれば......という言葉が気になってあちこちを調べてみた。チケットには何も書いてなかったが、買った時にもらった紙になんとそれらしきことが書いてあるではないか。フランス語なのでよくわからないが、reconfirmer とか 48 heures とか書いてある。しかも、ワルザザートの Nouvelles Frontieres のオフィスの住所と電話番号が書いてある。

これにはショックだった。もう少し自分が注意深ければ防げたかもしれないのだ。こういう書類のすみずみまで目を通すことくらいはできてもいいことだった。個人旅行では常識的なことではないだろうか。これに限らず、「もし自分があのとき気づいていたら」というやつは悔やんでも悔やみ切れないものだ。もし、チケットを買った時リコンファームについて尋ねていたら、もしロイヤルエアーモロッコのオフィスでもっと強引に再確認させていたら、もしちゃんと紙のすみずみまで読んでいたら、もしNouvelle Frontieres のオフィスがモロッコのあちこちにあることがわかり、確認してみようという気になっていたら、まあ、これはちょっと思いつかないが......。いくら考えてもしかたない。人間、常に完璧ではないということで自分を慰めることにした。

バスはマラケシュに着いた。連れていかれたホテルは郊外にあるトロピカーナとかなんとかそんな名前のとにかく高級ホテルだった。こちらとしては気が気でないのだが、旅行代理店のお兄さんは他の客の世話でそれどころではないらしい。こういうときに限って、どいつもこいつもおしゃべりばかりで、のろのろしていたり、ジャマエルフナ広場の観光についてなどつまらんことを尋ねたりするのだ。

やっと他の客をホテルのレストランに押し込んで時間をつくってもらったので、パリ行きのチケットを調べてもらった。

2時半のパリ行きはフルだった。

果たして無事帰れるのだろうか。

なおも、なんとかしてくれえーと食い下がると、とんでもない案を出してきた。今からカサブランカに行ってアムステルダム行きの飛行機に乗れというのだ。アムステルダムからパリへは毎時フライトがある。ここから、カサブランカまではタクシーで2時間、6時の飛行機に乗ってアムステルダムまで3時間、そこからパリまで1時間、何とか間に合うかもしれないというのだ。

ちょっと考えたが、間に合うわけがないと思った。間に合ったとしてもぎりぎりじゃないか。おまけにべらぼうな飛行機代がかかる。カサブランカからアムステルダムまで8万円とさらにアムステルダムからパリまで出さなければならない。ついでにカサブランカまで1000DHもかかっちゃうのだ。こんなにリスクの多い案は受け入れられないなあと思いながらも、他にどうしようもないのでひとまずロイヤルエアーモロッコのオフィスまで行くことにした。

「大丈夫だから。きっといけるよ」などと言うので、荷物をタクシーに積んでカサブランカまで行くつもりで、一緒にロイヤルエアーモロッコのオフィスまで行ってもらった。土曜日なので3時から開くのを待って、カサブランカからアムステルダム行きの予約と、パリ11時に間に合うかどうか調べてもらった。

結果はノー。どうやっても間に合わないことがわかった。この時点であきらめがついた。しかたがない、今日はマラケシュに一泊して明日パリに戻ろう。

タクシーの運転手に100DHなどいうべらぼうな金を請求されたが、こんなときなので払ってしまった。カサブランカまで行くと言ってあったので、彼は警察の許可をとってしまったのだ。それに彼を30分も待たせてしまった。

さて、結局、ホテルに帰ってチェックインした。もちろんホテルと明日のパリ行きは向こう持ちだ。

それにしても、これからどうなるのだろう。ちゃんと帰れるだろうか。

気分は絶望のどん底だった。与えられた部屋は見知らぬ人と一緒だったが、これをシングルに変えさせる元気だけは残っていた。今日はどうすることもできないし、せっかくの高級ホテルなのだからいろいろ楽しめばいいようなものだが、そんな気にもなれず、シャワーを浴びるとベッドに入って本を読んでいた。このホテルはおそらく新市街にあるリゾートホテルで、中庭にはプールがあったりするそんなホテルだった。

午後7時から皆で食事に行くというのでロビーへ降りていった。観光バスで連れていかれたレストランはとんでもなく高級な所だった。バスを降りて立派な門をくぐると両側に楽器を持った男たちと民族衣装に身を包んだ女たちが並び、我々を歓迎してくれるのだ。

ふかふかの絨毯が敷かれた大きな部屋に通された。回りをぐるりとソファーが取り囲み、低い丸テーブルが置かれている。食事が始まるとさっきの男たちと女たちがやってきて、音楽と踊りを披露してくれる。しかし、気分が暗ーくなっていって楽しむどころではなかった。僕はそれほどのタフさは持ち合わせていないようだ。

いっしょのテーブルになった人と話しをしていると少しは気が紛れた。話しをして、といっても皆はフランス語でおしゃべりし、時々英語のできる人が僕に気を使って話しかけてくれるだけだった。こっちも調子が悪くてほとんど黙っていた。それでも僕の抱えている問題を話すと少しは明るくなった。となりのおばちゃんが「まあ、カタストロフねぇ」といってくれた。

反対側の隣に座ったカップルはヒッチハイクで砂漠や大西洋側に出かけたのだそうだ。それぞれニュージーランドとイギリスの出身でフランスに住んでいるそうだ。ここにいる人たちはお金持ちばかりかと思ったが、中にはこういう人もいるのだった。少し親近感を覚えた。

長い食事を終え、ホテルの部屋に戻った。とにかく早く明日になって欲しかった。

1月10日

12時頃ホテルを出て、マラケシュ空港に向かった。

空港で、なんと例のギリシャ人にばったり出会った。あれからぼくはフェズ、マラケシュと回ってワルザザートへ行ったこと。フライトがキャンセルされたことなどを話した。「とても大きな問題があるんだ」と言って、東京行きのフライトが昨日だったことを話した。「たぶん、新たにチケットを買わなければならないかもしれない」というと「そうならないことを願うよ」と言ってくれた。

パリ行の飛行機は CORSAIR というパリの航空会社のもので、B747だった。搭乗ゲートが開くと各自、てくてくと飛行機に向かって歩き、B747の羽の下を通って、後ろから搭乗した。

飛行機は午後3時過ぎに離陸した。モロッコよ、さようなら。ほんとにいろんなことがあった。正直言ってなんだかほっとした。やっと文明国に戻れる。本気でそう思った。

オルリー空港は大荒れの天気だった。パリに近付くに連れて飛行機の揺れが激しくなった。最初は気流の乱れかと思い、そのうちおさまるだろうと思っていたのだが、とんでもない。すでに着陸の態勢に入っているのに機体はガタガタ揺れ、時々、すーっと降下するのだ。あまりの揺れに心底恐怖感が湧いてきた。すでに車輪を出して、降下を始めているにもかかわらず、ときどき機体が沈む。揺れは相変わらず激しく、こんなに恐いと思ったのは初めてのことだ。ほんとに事故が起きるのではないかと思った。できれば生き残り組に入りたいなあなんて考えた。

無事、着陸した時には乗客は大喜び。機内から拍手が湧いた。誰も彼もほっとしたようだ。ずいぶん、長いこと待たされたあげく、ようやく外に出ることができた。外に出ると、オルリー空港は雨混じりのものすごい強風だった。よく、こんな風の中を着陸したものだ。それにしてもひどい天気だ。まるで、今の僕の前途を象徴しているかのようではないか。

時刻は8時近くなっており、もうまっ暗だ。荷物を受けとるとさっさとパリ市内へ行くことにした。空港の中からしてもうモロッコとは全然違うのだ。わかりやすい案内にしたがって進むと、RERのB線へ向かう無人電車の改札が直接ターミナルに接続されている。また、切符はクレジットカードでも買うことができるのだ。ほとんど歩かずにもう無人電車の中だ。やがて、RERのB線の乗り換え駅に着く。ここからは30分もしないで市内に行くことができる。

今夜もリュクサンブルグ近くに宿をとった。うまいことに、すぐ近くにはエールフランスのオフィスがあるのだ。いいホテルを選んだので、ホテルは400フランもした。ユニットバスがついた日本でいうビジネスホテルみたいな所で、部屋もきれいだった。キーはオートロックのカード式で、それから部屋にテレビがついている。やっぱり贅沢っていいなあ。

さて、さて、明日は気合いをいれて交渉しなければならない。日本に電話をかけなければならないので夜中までテレビを見ながら、明日のことをあれこれ考えていた。

1月11日

さっそく近くで朝食をとり、エールフランスのオフィスが開くのを待った。9時になりオフィスが開くやいなや交渉開始である。

「あのー、実はですねぇ。東京行きのフライトを逃しちゃったんですよー。それというのもですねぇ、モロッコからパリへのフライトがキャンセルされてしまいましてねえ。ええ、これがチケットなんですけどね。えっ、スペシャルチケットって、それはよくわかっているんですけどね。ルールはもちろん知ってますよ。そこをなんとかお願いできないかと、こういうわけでしてね。えへへへへ。ねえお願いしますよぉ。今週から仕事なんですよ。ね。ホントは東京にいなくちゃいけないんですよ、私」

というような感じだが、応対してくれたおばちゃんは

「うん、うん、わかるわぁ。だけどねえ......。」

といった感じでいまいちだ。

結局、「東京のオフィスにあなたを乗せてもいいかどうか聞いてみなくては」ということになり、「東京はまだ開いているけど、うーん、明日いらっしゃいな」と言われた。

そこでホテルの電話番号を教えて、何かあったら連絡してもらうことにして、しかたなくホテルに戻った。

ここで一日待つか、別のチケットを買ってしまうか考えて、この際、別のチケットを探してさっさと帰ることにしようと決めた。一時間ほどして、もう一度、エールフランスに行ってみた。

「東京は何か言ってきた? 」
「ノー。何も」
「ねえ、ボスが怒っててさあ。今日帰りたいんだよね。仕事が待ってるしさあ ボスも早く帰ってこいってカンカンでさあ。ねえ、何とかしてよぉー。どーしても今日帰んないといけないの。ねっ、助けて、お願い......」

そうこうしているうちに、相手をしてくれていたおばちゃんが、いや、お姉さんがチケットを貸しなさいと言って、奥へ行ってしまった。

長い長い数分が過ぎた後、お姉さんが戻ってきてこう言った。

「あなたのために予約をしてあげたわ。いいこと、これは very unusual thing なんですからね」

やっほー。unusual なことくらいわかってまーす。

「今すぐ、空港へ行って頂戴。今度は絶対に逃しちゃだめよ」

あったりまえでーす。

チケットさえ手に入れればこっちのもの。普通の客と何ら変わりはない。

というわけで、数時間後、僕はエールフランスの機内でふんぞりかえってシャンパンを飲んでいたのだった。エールフランス万歳!!!

* * *

こうして、予定20日間、実績22日間の長かった旅が終った。実によい旅だった。

 
モロッコ

ハリーラを作ってみた

ハリーラを作ってみた post_monchan 2009/07/20(月) - 00:11
ハリーラを作った by Ik T

ハリーラを作った by Ik T uploaded on 19 Jul 2009

ガルバンゾー(ひよこ豆)を買ってきた。ハリーラを作ってみることにした。

豆は朝から水に浸けておいた。スパイスは、パプリカ、ターメリック、クミン、シナモンがあったのでそれらを適当に入れた。肉は豚肉。モロッコで食べたときは肉なんか入っていなかったような気がしたしたので、控えめに。

トマトを入れるらしいが、少なめにした。めんどくさいので乱切りにしてそのまま入れた。赤く見えているのがトマトだ。トマト缶を使えばよかったかも。

とろみを付けるために小麦粉を溶いて入れた。かすかな記憶ではかなりどろどろしていたような気がする。

煮込む時間が足りないせいか、豆が少し固くて歯ごたえがある。味はそれらしくはなった。まあまあ、おいしい。

モロッコ
料理